確かに全く当然適切な対応と言えるだろう、これは。
 分かっているが、現状を鑑みて可能とは俄に思えなかった。


「ゴーレムの記録を全部調べる!?」


「いや、クロス・マリアンと関わりのあった人物のゴーレムに限定するつもりだよ。まあ、関わりの深そうなゴーレムは本部帰還辺りから、他は二週間くらいで良いだろう。時間も起床から就寝までに止める」


 指を一本ずつ曲げながら提案していくルベリエに軽く殺意が湧いてくる。
 気遣いらしいものの片鱗も見えるので、簡単にその感情を爆発させるには至らないのが幸いだったが。


「それはこちらがするわけですか?」


「そうだね、こちらも忙しいから君達にしてもらおう思っているのだが、問題でも?」


 ちらりと寄せられる視線には明らかに意図が感じられて、思わず頭を下げそうになるのを押さえて眼鏡の縁をなぞった。
 彼も微妙な立ち位置にいる人間なのだとほとほと思う。


「意地悪ですね、長官に言われて無理だなんて言えるわけないじゃないですか」


 一応笑っているつもりではあるのだけれど、多分に人の悪い笑みになっている自覚はあった。
 回りからはちょっと嫌みっぽい風に見えてちょうど良いかもしれない。


「それではお願いしようかな。頼むね、コムイ・リー室長」


 人気の疎らな廊下でルベリエは共犯とかに属するに違いない笑みを浮かべた。
 彼が悪い人ではないのだと、妙に感じる瞬間である。









「室長、六十階から飛び降りるとかそういう予定ありませんか?」


「それは悪魔の遊びか何かかな?」


「いえ、単に死んでくれと言ってるんです」


 視線をこちらにくれもせず、リーバーが物騒な発言をしてくる。
 こっちだって、何倍速かで動き続ける画面から早々目が離せないのでおあいこだが。
 それでも何秒分か完全に見逃してしまったが、とりあえずなかったことにする。


「引っ越し後ってどんな規模であろうともごたごたするんすよ。それが黒の教団本部だったら尚更じゃないですか。なのに、何をどう考えたらこんな仕事が引き受けられるのか、本当に全く全然理解できないんすけど」


 ぶつぶつと零す感じに言っているはずなのに、どうしてこんなにも室内に響き渡っているのか不思議で堪らない。
 とりあえず乾いた眼球を潤すために瞬きを繰り返しながら、今回ばかりは事実だらけだろう反論を組み立てた。


「ゴーレムの映像にどこまで本部の情報が入っているか分からない限り、他人の手に任せるなんて危険すぎるじゃないか。それに正直さ、アレン君と神田君の喧嘩なんて見せられたもんじゃないし」


 目の前で展開されている映像はそもそも訓練のはずだったのに、今ではただの殴り合いに発展していた。
 音声自体は流れていないが、口数がやたら多いのは動画だけで分かる。
 こんなものを黒の教団の外部に流そうものなら、士気も落ちるし問題視されかねない。
 危ない。危なすぎる。


「……ちっくしょぉぉおおお! 分かってんすよそんなの! だから何だって言うんですか! 仕方ないで気が晴れるとでも!?」


「……罰ゲームだとでも、思えば」


 理不尽です、と叫ぶのが聞こえたけれど、罰ゲームとは常々そういうものだ。
 自分も始めは感謝を抱くくらいの気持ちで引き受けたが、次第に膨らんできた鬱々とした感覚をもう無視することはできない。
 ちょっとコーヒーでも入れてくるついでに高飛びしたい。


「君達は何を騒いでるんだ」


 そんな班長泣かせの邪念が過った瞬間、心底呆れたらしい声音が背後から聞こえてきた。
 椅子の背もたれを半ば無理やり倒して視界を反転させると、書類らしい束をバクが差し出してくる。


「いや、まあ、ちょっとね」


 少々不自然な姿勢で書類を受け取って、とりあえずは動き続けている映像を一時停止した。
 体勢を戻した際に少しばらけた束を元に戻して、上から順にさっと目を通す。
 どうやら手間がかかりそうな様子だったから、画面の電源も落として執務机に移るために席を立つ。


「……それは室長と班長が雁首を揃えてやらないといけない仕事なのか?」


「デリケートな仕事なんだよ」


 己に言い聞かせるように言うとそこここから大仰な溜め息が聞こえてきて、釣られて小さく息を吐く。
 執務用の椅子にやや乱暴に腰を下ろすと、バクがこれ見よがしに鼻を鳴らした。


「まずそれの始めの二束に目を通して指示をしてほしいと言っていたから、さっさと連絡を入れてやってくれ。後、多分それから下の奴は追加資料がいるからまた取ってくる。私が帰ってくるまで置いといてくれ」


 紐で綴じてある紙の束を捲って確認しつつ、バクの説明に相槌を打つ。
 体を治して一度アジア支部に帰ってから、引っ越しの手伝いのはずがうっかりサバイバル状態の中ワクチン作成に勤しませられた彼女は完璧に帰る機会を逃してしまったようだった。
 支部長の仕事は大丈夫なのかと心配ではあるが、雑務から要務までそつなくこなしてしまうので最早手放すのが恐ろしい。
 体力的にも精神的にも限界だった本部の襲撃事件後のあのことがあってから、どうも甘えてばかりなのは分かっているのだがどうしようもない。
 一度色々と吐露してしまえば、後はなし崩しに頼ってばかりになってしまう。


「……どうかしたか?」


「え? ああ、ごめん。まずは上二つだけだったよね?」


 説明が終わってからも動き始めなかった自分に疑問を抱いたらしく、バクが軽く眉を潜める。
 始めの束を手にとって確認をすると、咎めるような雰囲気はそのままに頷くだけで了承した。


「無理するなよ」


「……うん」


 外に行くついでというふうにバクが肩に手を乗せて労ってくれたというのに、簡単な返事しかできなかった。
 普段ならバクちゃんもね、くらい言えるものだし言わなければならなかったのに。

 疲れているのか、はたまた気が抜けているのか。
 どちらにせよこれは大変宜しくない。


「よし、働こう!」


 一度首を回して気合を入れるついでに宣言すると、一斉に人が動く音がしたけれど無視を決め込むことにした。
 報告書の内容は明らかに備品の在庫が多いという物と、電気供給が不安定な部屋があるという物だった。
 前者は一度各部署の人間を集めても良いか指示を仰いでいるだけだったので、さっさと許可を出してやる。
 後者は科学班の人間に確認させた方が良いと判断して、向こうには悪いが待機を命じた。
 後で仕事が一区切りついた者が出れば、使いに出さなければならないだろう。

 しかし、それが終わってしまってはこの紙の束はいかんともしようがなくなってしまった。
 一応下の束も確認してみたのだが、明らかに他の資料の参照番号が記されてある。
 これを見ないままに書類が処理できるのなら、そもそも参照番号など入らないので今読んでも穴埋め問題をやるようなものだ。
 吃驚するくらい時間と労力の無駄である。


「あ、そっち終わったんですか?」


「一応ね」


 だからといってバクが帰ってくるまでのほほんと待っているわけにもいかず、先程まで座わっていた椅子に移動した。
 電源を落としていた画面を点けて、さっきまで見ていたティムキャンピーの記録を再生する。
 喧嘩のような訓練が終わった後は特に何もなく、つつがなく一日を終えたようだ。
 それから次に映った映像はどこか見覚えがある光景だった。
 というより、まず自分が映っている。
 タイムテーブルを確認すると、どうやら箱舟が本部に来た頃の物らしい。

 そういえば、あのときは好きな人がどうとか聞かれたような覚えがある。
 落ち着いてはいるものの、アレンも十五歳の少年なのだと妙に微笑ましかった。
 あの話題をしてからようやっと、最近めっきりそういうことをしていないことに気が付いたのだけれど。
 昔は稀に金銭を払って相手をしてもらったりしていたはずなのに、忙しいのも相俟って年単位でご無沙汰である。
 別段支障がないから構わないのだけれど、年の現れのようで少し悲しい。


「あ、これ来たんじゃないかな……?」


 つらつら考えながら画像を見ている内に、赤髪の男が現れた。
 今まではアレン、ラビ、それに神田という珍しい面子で食事をしていたのが、会話の中心が急にクロスに移ったようだった。
 一瞬この時期にこの男が一人でふらふら出歩けたか身分だったかと疑問が過るが、一度強く瞬きして思考から追い出す。
 酒のためなら多少の道理など、そう大きな障害でないに違いない。


「え、ちょっと見せてくださいよ」


「ちょっと待って、巻き戻すから」


 わらわらと寄ってくる部下を制して、三人の食事シーンが始まる当たりまで巻き戻す。
 クロスが三人の会話に絡んできたのだから、その辺の話題が分からなければどうしようもない。

 音声付きで再生したら、第一声が非常に重苦しいアレンから神田に向けた敵意フルスロットルな嫌みだった。
 それを聞いたラビが引き切った表情で突っ込みを入れる。
 これがいつも通りの風景なのか、それとも関わりたくないのか誰も仲裁に入ろうとはしなかった。
 背後から呆れたような笑い声が漏れ聞こえてきて、こちらも我慢できずに苦笑する。


『アレン、何があったかお兄さんに話してみるさ! ほら、気が楽になるかもしれないし!』


 ただ一人部外者になりきれなかったラビが険悪な雰囲気が漂い出した食卓でアレンの気を逸らそうとする。


『いえね、ただコムイさんが予想以上に朴念仁というか、バク・チャンって人知ってます?』


 それに乗ったらしいアレンが少し声を潜めてコムイとバクの名を口にした。
 先程の話題を出すのだろうか。


「何を今更」


「失礼な」


 キャスター付きの椅子で寄ってきていたリーバーがぽつりとコメントしたのを、やはり視線を寄越さずに非難する。
 自分が分からず屋になったことは一度もない、と思いたい。


 神田が話題に加わっているのが少々不思議な気がしたが、もしかしたら今日の蕎麦が美味しかったからとかそんな些細な理由からかもしれない。
 ラビが六幻の話をしても、視線で咎めるだけでそれ以上何もしなかった。


『で、そのバクさんが――』


「……え?」


 ラビの方に身を乗り出したアレンが元から潜められていた声をもっと潜めて、口元に手まで沿えて口にした言葉に耳を疑った。
 質の悪い冗談としか思えない。
 そんな、まさか。
 なんだそりゃ、と返したラビに全力で同意したい。


『写真、持ってたんですよ』


 久々にリーバーの顔を真正面から見たと思ったら、即座に顔を背けられた。
 体をもっと捻ってみても、ほとんどの人間が顔を逸らしている。


「ジョニー! これって……!」


「ええ!? そんな、こと、言われても……」


 唯一真面に視線が合ったジョニーに問いかけても、狼狽して手を振り回すばかりで要領を得ない。
 もう音声しか聞こえてこない動画は、満面の笑みがどうのといっていた。


「事実だ」


「うわ、アジア支部長……」


 バクちゃん、と声を出したはずだったのに、全くもって耳に入ってこない。
 聞こえていないのか、本当に声が出ていないのかも分からなかった。


「コムイ」


 誰かが映像を止めたらしく静まり返った室内で、バクの呼びかけだけが響く。
 何でもないような、まるで挨拶ついでに雑談でもしようかと思っているような声音に肩が震える。


「気にするな」


 え、と疑問の声を上げたのは自分ではなかった。
 そこらで耳をそばだてている人々の、それも口の緩い奴らだろう。
 普段なら自分もそちらに分類されるはずだというのに、一音たりとも口にできなかった。

 ああ、もどかしい。


「もう何年になると思っている? 今更だ」


 軽く肩を竦めてから、バクが抱えていた資料を渡してくる。
 オイルの切れた機械のように固まった肘を動かして、どうにか受け取った。


「電気配線の方、保留のままらしいな」


「ああ、うん、そう」


 次はどうにか口も動いた。
 変に間の抜けた声だ、と頭の片隅で思う。


「では、私が様子を見てこよう。構わないな?」


 こちらを窺ってくる瞳の上の目立たない睫も平常通りで、どこを取ったってバクは平静だった。
 下手をすれば、壮大な悪戯とも取れそうな程に。


「……お願いして良いかな?」


 だから、申し出を受けない理由がなかった。  分かった、とバクは告げて、いつの間にか部屋からいなくなっていた。
 本当に、いついなくなったかも分からない。
 ただ残っているのは彼女の声だけで。


「……阿呆ですか」


「そうですよ、何考えてるんです!」


「馬鹿!」


 誰が何を言っているか判別できない勢いで一斉に非難されて、思わず両の肘掛けに腕を背もたれに背中をぴったり押し付けた。
 その間にもやいのやいの言われて、一気に冷や汗が吹き出す気配を感じる。

 何年も前から、彼女が。
 一体いつから。
 リナリーと自分のために本部室長の席を譲ってくれた彼女が、いつ。
 いつから。


「全っ然気づかなかった……」


「サイテーっすよ、それ」


 万感の思いを込めて告白すると、リーバーがあからさまに眉を潜めて切り捨てる。
 確かに最低以外の何ものでもないと自認するところなので、否定のしようがなかった。


「電気線の方はこっちでなんとかしますから、あんたはさっさと支部長追っかけてください」


「え、でも」


 これ見よがしに溜め息を吐いたリーバーに口を挟もうとすれば、リーバーはもちろん部屋中から鋭い視線を向けられた。


「……分かりました」


 やっと肘掛けから腕を上げ、降参のポーズを取る。
 じゃあさっさと行ってこいと指示されながらも、暗澹たる思いが胸に蟠る。

 バクは長く同期であり、友であった。
 そう、気の置けない友人だったのだ。
 誰にも吐露できなかった弱音を吐けるほどに。

 それ故に彼女が本当に何を思ったかなど、考えたことなどなかったのだ。