「帰れ」
「そう言われると僕、本格的に居場所がなくなるんだけどなあ……」
丸椅子に無駄に長い体を納めて、少し背を丸めたコムイが途方に暮れたように呟いた。
水差しやらが置いてある机には先程見せられた科学班の連名らしい即席の見舞い許可証が所在なさ気に傾いている。
題と連名の間にそれ以外のことをしたら殺すとの旨が記されているのが曲者である。
「なら、ウォーカー達にでも会いに行けばどうだ?」
「あ、それはもう行って来ちゃった」
物騒な文言の書かれた紙を引っ繰り返して、コムイに様々な筆跡の署名を見せつけられる。
お世辞にも可愛らしいとは思えない兎の落書きがされている所を見ると筆跡自体が偽造とも思えないし、そもそもそこまでする必要性が見当たらない。
ゆるゆると溜め息を漏らした。
「仕方ないな……好きにしていけば良いさ」
ベッドが壁に寄せられているので、壁に背を付け膝を立てて座る。
枕を膝と間に枕を挟んでから、コムイに手招きした。
「……その椅子じゃ窮屈だろう。ああ、他意はないからな」
一瞬こちらの真意が分からなかったようで、コムイが表情を凍らせた。
こちらも意図していなかったとはいえ、人をベッドの上に誘うのはさすがにまずい。
口早に弁明して、釘を指してからさっさとスリッパを脱ぐように指示するとコムイは素直に従った。
あんな騒動が二度と起こってほしくはないが、そういうときに備えて靴にした方が良いとは思う。
危ないにも程がある。
「じゃ、お邪魔します」
ベッドの脇にスリッパを揃えてベッドに乗ると、こちらに習ったように壁に背を付けて胡座を掻いた。
椅子に座っているよりは気楽そうに見えるので、ひとまずは良しとする。
「……靴下も脱いで良い?」
「勝手にしろ」
靴下の下で指を動かしていたコムイが物足りなくなったのか、おずおずと問いかけてくる。
ベッドに上がっている時点で無用の気遣いのような気がしないでもない。
「いつのだっけ、これ……」
靴下を脱いだ途端、急に真剣な表情になったから何かと思えばこれである。
恐らくいつ靴下を履き替えたのか覚えていないということなのだろうが、それはそのままいつシャワーを浴びたりしたかが分からないということではあるまいか。
体を洗っておきながら、服を替えないというのはまず考えられない。
こいつ、何日単位で風呂に入ってないんだ。
「そういうことをわざわざ言うな!」
「ごめん、ちょっと思考が筒抜けになってるみたい」
単純に疲れを露呈させる発言をしながら、靴下の下で動かしていた指先を掴むと足を伸ばしてコムイが筋を解しだした。
もう帰れと言ったところでてこでも動かないだろうから、少しでも落ち着いてもらう外なくて黙ってストレッチを見守る。
こうやって見るとべらぼうに足が長い。
というよりも、各パーツが大きい。
性別差を差し引いても、爪の大きさからして違うように思えた。
「バクちゃんって足何インチ?」
自分と同じでコムイもこちらの足を見ていたらしく、もう片方の足を伸ばしながら聞いてくる。
人に裸足を見られることなど早々ないので気恥ずかしく思えるが、今更隠すのも不自然で踵を立てて足を体に近づけた。
顔に寄ってきた枕を顎で押さえて、自分のいつの間にか伸びていた親指の爪を撫ぜる。
「九インチくらいだな。十はない」
断じていえば、中国においてこのサイズは決して小さくはない。
むしろ大きいくらいだ。全く嬉しくないが。
「バクちゃんって纏足じゃないんだよね」
「あれはチャン家には不要の物だからな」
清の美的感覚上、纏足は魅力的な物とされているが、清以外と交流する場合何の利点もない。
その上、真面に走れなくなってしまったら、たとえどれだけ優秀な者であろうとマイナスに取られかねない。
「まあ、深窓の姫君って柄じゃないもんねえ」
「わざわざ見舞いに来て、することが人の気を逆立てるだけとはどういう了見だ」
どことなく楽しげな様子のコムイに言い返しはするが、自分がお姫様とかいうジャンルに分類されはしないくらいは承知している。
いや、こちらだってお姫様なんぞ願い下げだが。
「いや、そうじゃなくって、バクちゃんは深窓の佳人でしょ?」
「は?」
「お姫様じゃ才色兼備とは言えないし」
にこにこ笑いながら言葉を続けるコムイに、どうしてか許しを乞いたくなった。
全部分かっていてやっているんだろう、いっそのことさっさと止めを刺してほしい。
「そ、そういう意味じゃないだろう! 深窓の佳人って言うのは、もっと……!」
体温が一気に上昇したついでに、ちりちりと首筋に特有の痒みが走る。
土下座でもして真っ赤に染まった首の一つ晒してやれば、いくらコムイでも気づくのではなかろうか。
「えー、でも、チャン家は良家だし、バクちゃん自身も、何だかんだいって仕事一筋だし……」
虚空を見上げて指折り己の発言の正しさを主張しだしたコムイを前に、羽毛の枕を力一杯抱き込む。
にぶい! にぶいにぶいにぶい! このばか!
「で、その仕事一筋の女にするべき話はないのか?」
心内で一向叫んでおいて、憎らしさに乗せて険のある声音で告げる。
これ以上彼お得意の意図しない殺し文句を聞いていて、自分が持つとは思えない。
変形した枕に頬を寄せると、さらりとした冷たさが心地良かった。
「ああ、ええと、どこから話そうかな」
己の言動がまずかったらしいと悟りはしたようだが、どこに問題があったかまでは分からなかったようで少々肩を窄めるにコムイが止めた。
もしかしたら、分かっていてフォローの言葉が見当たらないのかもしれない。
どちらもありそうな話だ。
「本部を移すと聞いたんだが、それは?」
「本当の話だよ。構造が複雑化する一方だったし、今回のこともあったから良い機会だろうって」
呼び水代わりに移転の話の真偽を持ちかけると、ちくりと神経に触れる言葉と共にコムイが認める。
余計な言葉を引き出してしまった自分が憎らしい。
あのことを良い機会などと自分が聞いても平気ではないのだから、彼の思いはいかばかりか。
「だからバクちゃんも落ち着いたら応援にきてほしいな」
それでも彼は笑うのだ。
「そうだな。人手不足のようだし」
「四六時中ね」
こちらの発言に対して返されたまるでいつも通りだと言わんばかりの言葉に胸が詰まる。
さきほどのような焼けるような感覚には程遠い、求心力を感じずにいられない感情。
ああ、これから自分はこの人を傷つけるのかもしれない。
「……コムイ」
それでも。たとえそうであろうとも。
「バクちゃん?」
声色の変化を感じ取ったらしいコムイが持て余すように足を解していた手を止めた。
声がかすかに震えていたのは自分でも分かる。
けれど、これが恐れからなのか興奮からなのか分からなかった。
「私は分かっているつもりだ。お前がどういう思いでいて、それを隠そうとしているか」
震える手を支える膝が震える。
ひとは他者を理解することはできないと、名だたる哲学者は口にする。
そう、ひとはひとを理解できない。
それがたとえ愛する誰かであったとしても、分かると言いながら実際のところ分かっていないのだ。
ほら、だからこんなにも今自分は震えている。
暴かれたとき、コムイがどんな反応をするのか全く分からない。
「苦しいなら、悔しいなら笑わなくて良いんだ」
「――僕は」
本部に来てから急にかけだした眼鏡が逸らされた瞳を朧げにする。
別段視力が悪いようには見えなかったので不思議に思っていたが、ようやっとその効果に気づかされた。
ぼくは、と呟くように口にしたコムイの顔色が陰った瞳のせいで分かり辛くなる。
何を思って、彼は何を言おうとしているのか。
「外してしまえ、こんなもの」
体を乗り出して両膝と腕で体を支えれば十分に届く距離を一気に詰めて、少々強引に眼鏡を外す。
コムイを室長に駆り立てる全てのものが憎らしく思えた。
「私はお前の部下ではなく、アジア支部の長なんだ。お前と同じように何度も苦汁を飲んできた」
脇に放うった眼鏡をコムイは決して見ようとはしなかった。
代わりに頼りない視線をこちらに向けて、ただただ息を飲んでいた。
予感のようなものを感じ取る気配にこちらまで緊張して、うまく息が吸えない感覚に襲われる。
「一人になるな。絶対に、絶対にだ」
膝立ちになってコムイの頭を抱き込んでやると、ゆるゆると肩口に重みが下りてきた。
耳元を重たい吐息が滑って行って、こちらまで泣きたくなってくる。
気丈に振舞うのにはとっくの昔に慣れてしまったけれど、だからといって何も感じなくなるはずがない。
だからこそ、こんなにも簡単に自らを保てなくなる。
体力的にも精神的にも限界なのだ。
「沢山の人が死ぬんだ」
コムイが肩に顔を押し付けて、絞り出すような声で告げる。
縋るように回された腕の力の強さに僅かに肩が跳ねたが、腕を弱める余裕もないらしくぴくりとも動かなかった。
「ずっとどうしようもないことだと思っていたのに、目の前の人すら看取れないなんて思ってもみなかった。僕の想像力が足りなかったのかもしれないけど、あんまりじゃないか」
後半になればなる程に、コムイの声が掠れていく。
スカルにされた者の中でやたら名前を呼ばれていたタップというのは、確か直属の部下だった。
数も把握できない程の処理が待ち受けているコムイはきっと彼を看取る暇なく、誰かに呼ばれてその場を去る羽目になったのだろう。
誰が悪いというわけでもなく、室長という位の宿命である。
けれど。
けれど、それを平気に思える人間がどこにいるだろう。
たとえいたとしても、そのような輩に室長の座を渡しては禄なことにならない。
だからこそ、栄光の座でひとは苦しまなければならない。
「どうして僕はこんなにも非力なんだろう? 分かってるんだ。僕の価値がどこにあって、どういう振舞いをすれば良いのかってことくらい」
でも、思わずにはいられない、と震える声で告白される。
「室長であるということで、みんなは僕を守ってくれる。でも僕はみんなを守ることはできない。悔しいし、空しい」
科学班にいる限り、できることといえば守る術と戦う術を与えることばかり。
それ以上のことはできはしない。
だからこそ、精一杯その役目を全うすることは至極当然のことだが、それが何の慰めになるだろう。
彼は落ちる砂を入れる容器を作ることはできても、枠から零れるそれを止める術を持たない。
その事実を仕方がないと言える人間がいるならば、それは本心を押さえ込んでいるか何も考えていないかのどちらかだ。
「バクちゃんがしたように、僕も動きたかった……! そうすれば、一人でも」
助けられたのではないだろうか、という類の言葉は後に続かなかった。
もしかしたら口にしたのかもしれないが、嗚咽に交じってもう何も分からない。
そのままコムイがしゃくりを上げて子供のように泣き続ける様をただただ背中や頭を撫でながら見ていることしかできなかった。
感情を吐き出すことで彼が楽になれるのかも分からない。
けれど、触れる先からコムイが自分に縋ってきているのが伝わってきて、どうしようもない感情の波に攫われてしまう。
満足感、優越感、幸福感にそれを底冷えさせる絶望に。
コムイは、彼はどうしたって室長なのだ。
いつもどうすれば本部が皆にとって気の置けない場所になるかを考えて、大事な妹以外のことでは起きられないくらいになるまで働いて。
エクソシストはもちろん、この戦いに関わる全ての人を思って。
彼は誰ひとり、何ひとつとして数字として扱えない。
だから、どれだけの人を彼が思っているかだなんて、きっと誰にも分からないのだ。
こんなにも沢山の人を思う人に、どうやってこれ以上特別が作れるだろう。
どうしたら、これ以上失う恐怖を与えられるだろう。
駄目だ駄目だ、与えられる筈がない。
こんな思いは自分だけで十分だ。
ああ、想像力が足りないのはこちらの方だ。
こんな思いを味わうことになるなんて、思いもしなかった。
これがきっと最後だと思うとコムイをあやす腕に力が籠もって、その分彼が擦り寄ってきたから勘違いしそうになる思考の代わりに目頭から涙が零れた。