僅かな明かりを頼りに宙に浮かび上がる手の平をぼんやりと見上げる。
当然太陽ではないので、血管どころか漸く輪郭が分かるくらいだった。
それでも、今確かに。
「いきている」
どうして自分は生きているか。
どうしてあのスカルとなった人々は、悔しいことに名も知らぬ人々は死ななければならなかったのか。
死ぬ人と死なぬ人の差は何だったのか。
何故自分が生きなければならなかったのか。
あのとき、役職や生まれはほとんど意味をなさなかった。
しかし、そんなことを考えたところで答えが見つかった試しなどない。
生と死の選択、因果の前に人はただ口を噤むばかりだ。
そうでなければあの哀れな男に神がしたように、声を失ってしまうに違いない。
魂の午前三時だ。
酷く酷く悲しくて寂しくて、与えられた命を断ってしまいたくなる程の。
きっとこんな夜でも、部下の最期も看取ることができなかった男は悲しみに目を向けることすら許されない。
そうして、その座を与えたのは他ならぬ自分なのだ。
「バクさん、休んでいられるのも今の内ですね」
どうもこちらの傷の加減は既に知るところらしく、足首に黒い輪を着けたリナリーがふわりと笑って見せた。
描かれた曲線のあまりの優しさに釣られて笑みを浮かべる。
コムイの偏愛ぶりも分からなくもない。
「そうだな。治り次第一旦支部に戻らないと」
ウォンの話を聞く限り、ひとまずフォーの説教を聞くはめになりそうなのだがそれはともかく。
「ああ、そういえば知ってます? 本部引っ越すらしいですよ」
「……未だ建築中なのに?」
本部は永久に完成しないというのはどこの支部でも実しやかに流れている話だが、実際全然覚えのない部屋に通されることも稀ではないので強ち嘘ではないのだろうと思う。
しかしノアに襲撃された今、活用しきれていない施設を放棄しなければならない程に追い詰められているのだ。
分かってはいるが、茶化さずにはやっていられない。
きっと彼もいつもこんな気持ちで笑うのだろう。
「サグラダ・ファミリアみたいですよね」
「やっぱり事実なのか……」
あっさりとリナリーに噂を容認する発言をされて、一気に肩の力が抜けた。
そんなに部屋ばかり作ってどうするつもりなのだろう。
本当に必要な施設は十分過ぎるくらいに揃っていそうなものなのだが、それでも足りないのだろうか。
「ちょっと帰って来なかったら、すぐ迷子になりそうになっちゃいます」
何だか生き物みたいと笑う彼女の瞳には愛着とそれを失う寂しさを湛えていた。
きっと、彼女の兄にも同じ宿る感情が宿っていることだろう。
「――コムイはどうしている?」
「え、兄さん来てないんですか?」
突拍子のない流れで聞いてしまったと後悔した瞬間、リナリーが膝に置いていた手を軸にしてぐっと乗り出してきた。
「いや、来ていることには来てるんだが、いつも追い返しているんだ」
「どうしてですか?」
始めよりも驚愕を深めてリナリーが問いを重ねる。
追い返しておきながら様子を聞いているのだから、彼女の疑問ももっともだ。
「あいつがあれだけ多忙なのも、私のせいだからな。これ以上負担を掛けるのも気が引ける」
「そんな……」
「時々思うんだ。本当にコムイに室長をさせて良かったのか。もっと他の方法があったんじゃないかって。少なくとも、今あいつが苦しんでいるのは私のせいではないだろうか、と思わずにはいられないんだ」
これが目の前の少女を傷つける言葉であるのは百も承知だった。
あのときコムイが本部に行かなければ、恐らくこの場にこの少女はいないだろう。
それでも言わずにはいられなかった。
小さな沈黙が降りて、ただ二人が呼吸する気配だけが耳に残った。
それでも顔を俯けて目をすがめるリナリーの言葉を待つ間に、少しずつ聴覚が他のものに行くようになる。
たとえば時計の針が動く僅かな音に、扉の向こうから時たま流れてくる騒がしい気配。
ぎゅっとリナリーが太股についた手の指先を丸めて、その強さでもってこちらを射貫いた。
「――それでも、どれだけ兄さんが犠牲を払っていて、これから傷つくとしても私は兄さんがいなければ駄目になっていました」
一度息を吐いて、リナリーが表情を和らげた。
「別々に考えなくちゃいけないと思うんです」
「別々に?」
リナリーの意見を聞くことに神経を集中させていたせいで、考えが追いつかずにおうむ返しをしてしまう。
「そうです。細かいことでこれはプラス、あれはマイナスだなんて考えても仕方がないじゃないですか。かといって、全部を足し算するなんてできやしないんですし、だったら大切なことを一つずつ考えるしかないんじゃないかって。だから、兄さんが本部にきてくれたことって、私にとっては完全無欠に格好良い正しくヒーローなんです。そこはきっと本当は臆面なくありがとうって言うべきなんじゃないかって、今気づきました」
「今、か」
彼女がどうにかして自分を正当化しようして考えてくれたことそのものに、どうしようもなく嬉しくなる。
なんて素敵な妹だろう、そんな子を悲しませてはいけないと彼は承知しているのだろうか。
僅かな間の会話だけれども、コムイがリナリーの話題を避けているのは察知できていた。
「でも、ずっともやもやしたのが晴れたような気がします。きっと良い面だけを持っているものの方が少ないんですよね、実際は」
「そうだな。問題はどちらを取捨するかだ」
頭では分かっているのだけど、と笑うと、釣られたようにリナリーが苦笑した。
本当にそうですね、と続けた彼女の心中はいかばかりか。
理性と感情は全く別物で、理解できても受け入れられないことは沢山ある。
「でも総合的に、本当に大きな枠で見なければ分からない人もきっといる。ちゃんと使い分けないとな」
彼女にとってそんな人がいるのか分からないが、彼女が嫌いになる人が一人でも少なくなるように。
足し算もできる人になってほしいと思う。
ありがとうと言われることがこんなにも嬉しいのだと気づいたのはいつからだろう。
確か、確かと思う。
バクがアジア支部長になって、総会のために本部にやってきたときだった。
コムイがここにやってきた経緯を説明されても、そのバクという女性と関わった記憶は全く思い出せなかった。
そもそも名前を覚える必要のない関わりばかりで、覚えることを忘れてしまっていたのかもしれない。
けれど彼女と再会して初めて、取り押さえるわけでもなく自分の頭に触れた手の感触を思い出した。
暴れられることを前提にしていない、構えない体は酷く優しくてこの人ならと思った。
そうしてこの人は。
本当はこちらが先にありがとうと言わなければいけなかったのに、ただただしがみつく勢いで抱き着いた。
彼女は少し驚いたようだったけれどすぐに抱き締め返してくれて、肺に溜めて熱くなった吐息と共に二つの言葉が耳を擽った。
良かった。
待っていてくれてありがとう、と。
それから、どうにか抑えていた嗚咽が溢れ出して止まらなかった。
兄さんだけではなかった。
この人もまた私を思って、守ってくれていたのだと思うとどうしようもなかった。
――兄さん。
人の思いに答えたいというのは悪いことですか。
「コーヒー持ってきましたよ!」
宣言と共に扉を開けると、何枚か紙が吹き飛んだ。
コーヒーを飲み終わったらすぐさま飛んだ資料を片付けなければならないと分かっているはずなのに、それでも何度となく同じ光景を見てきているので最早何も言わない。
不毛なのはこの場の全員が了解済みだろうが、結局やらずにはいられないのだ。
「ん、ありがとうリナリー」
いつもよりもあっさりした感謝の言葉に小さく胸が疼かずにはいられないが、それでもコーヒーを手渡して普段を意識した調子になるように口を開く。
「バクさんから面談禁止食らってるって本当なの?」
早速コーヒーに口を付けようとしたコムイが一瞬固まって、それからすぐに苦笑した。
口元に笑みを残したまま、少しだけ唇を湿らせただけで机にコップを戻す。
「『こんな所にくる暇があるならさっさと寝ろ!』だってさ」
「バクさんも兄さんが今大変っていうのが分かっててもちょっとね」
僕だって心配してるのに、とコムイが大仰に肩を落として見せたのを契機に、緊張の糸が解け始めたような気がした。
バクの思いを把握しながらも、ちょくちょく様子を見に行くのだからコムイも相当だというのに。
「あのとき思ったんだけど、バクちゃんだって女の人なんだもんね。傷とか残らなきゃ良いなあ」
しみじみと言うコムイのあのときというのがいつのことか分からなくて、まだ平穏だった頃の記憶を掘り返す。
そして思い当たった瞬間、痛切に実兄を張り倒したくなった。
何だかんだいって一晩一緒にいて、寝顔を見て初めて自覚するとは何たること。
むしろ、アジア支部にいた頃にどうして気づかなかったのか分からない。
二人とももっと若くて、科学班で紅一点といっても差し支えなかっただろうに。
「リナリー?」
「……ええと、うん、それはそうよね」
コムイに不審がられた辺りで今更のことだと思い直し、どうにか取り繕って口にする。
いつもは少し煩わしく思うときもある程の愛情が先程の沈黙を覆い隠してくれれば良いのだけれど、あり余るそれのせいで覆い隠さずとも良いものまで見えなくしている気がしてならない。
「でも、ああは言ってるけど、バクさんも兄さんのこと気になってるみたい。ちょっと無理言って居座れないかな?」
「……うーん、やっぱりそっちの方が良いと思う? 向こうも今更現状が聞きたいから長居してくれとは言いにくいだろうなとは思うんだけど」
顎のラインに沿えた手の人差し指で軽くこめかみを叩きながら、コムイが暫しの間瞑目する。
恐らく妥当なところであろう推察に頷いて同意すると、コムイがとても自然に白紙の紙切れを手に取った。
「仕事してからにして下さい」
その紙を机に置く前に、いつの間にか忍び寄っていたリーバーが腕を掴んで制止を掛ける。
「いや、だって」
「駄目です」
「バクちゃんも気に」
「駄目です」
座っているせいで普段とは逆転している視線の高さでもって、リーバーが出来る限りの圧力を掛ける。
どうせ抜け出して見舞いに来たことを知ることがあれば、バクは頑としてコムイの滞在を許さないだろう。
現状の科学班員なら先手を打って教えかねない。
どちらにせよまずはいつものように仕事を片付ける外ないのだ。
静かに差し出された書類の束にコムイが深々と溜め息を吐いた。