大きな音がして、勢い良く机に膝を打ち付けた。
薄い金属特有の音と膝の痛みに眉を潜めつつも、自分が枕にしている物に気づいて一気に意識が覚醒する。
開き切った資料のバインダーである。
涎が垂れていないのと変な皺が寄ってないのを確認して一息吐いてから、もう一つの枕であった腕を確認する。
腕を上げて見てみると普段日に当たらない側に見事に跡が付いていて、助っ人とはいえ常日頃からの疲れが出てしまったのだろうと結論付けるしかなかった。
人の寝息に釣られて寝てしまうとは情けない。
「えっくしゅっ!」
何とはなしに腕にできた凹凸を指でなぞっていると、派手なくしゃみが聞こえてきた。
くしゃみの主を見れば、紙の保存のため温度が低めに設定されているというのに上着を跳ね飛ばしたらしいコムイが背中を丸めている。
どうやらこちらの方に寝返りを打った際に上着がずれてしまったらしい。
恐らく最初の物音も彼のくしゃみだったのだろう。
あんなに強烈なくしゃみをしたのだから眠ってなどいられないだろうと思ったのだが、どうも多少の衝撃ではコムイの睡魔は破れないらしい。
逆にリナリーが嫁に行くと言いさえすれば目覚めるとも聞いたことがあるけれど、それはともかく。
「いつもそうやって」
コムイの前までやってきて、静かに床に膝を突いた。
「そうやって、限界まで働いて」
ずれてしまった上着をしっかり掛け直してやってから、コムイの頬に指を滑らせる。
己の指の先でどんよりと染まる目許に、ほんの少し口元に力が籠もるのが分かった。
「誰にも弱みを見せようともしないで」
解く余力もなかったのか結われたままだった髪紐を解いてやって、頬に触れたのと同じようにそっと撫ぜる。
「お前はどこで休むというんだ、コムイ……」
本当ならこんな所ではなく、綿の詰まった布団かマットレスの上で。
一枚の上着ではなく、羽根の詰まった干したての布団を掛けて。
薄い帽子ではなく、使い慣れた枕を頭に敷いて眠ってほしい。
そうして心落ち着ける人の、例えば自分でいうところのウォンやフォーのような人の下で目覚めてほしいのだ。
それが自分の役目なら、どれだけ幸せだっただろう。
「え」
抗議もかねて軽く髪を引っ張った途端、体が傾いで声が漏れる。
そのまま悲鳴を上げる間もなく床に倒れ込んで打ち付けた肩が代わりに鈍く悲鳴を上げた。
一瞬脊髄でも損傷したのかと思ったが、そこここからの痛みが神経系の健全さを主張している。
反射的に閉じていた瞼を上げた途端、コムイの頭が見えて今度こそ悲鳴を上げそうになった。
それから始めて脇腹から腰に掛けての重みを感じ取って、目眩のような感覚が湧き上がる。
寝ぼけているのだろうか。
それとも。
そのとき、俄にコムイの腕が引き寄せられた。
リナリー。
そう、体に押し付けられたコムイの口から漏れる。
どうせ、大好きな妹と間違えられているのは分かっていた。
分かっていたのに、その声音と痛いくらいに締め付けてくる腕に息が詰まる。
ここ最近激化する一方の戦いの中でこの人はどれだけのものをなくし、そして失いかけたのか。
そしてまた、失っていくのか。
似たような立場にいる自分だからこそ、それが嫌というほど分かるのだ。
そして、失ったものを人為的な力で無理に埋めることなどできないということも。
コムイ、と心の中だけで愛しいひとに呼びかける。
彼が本当に呼ばれたいと思う声を持っていない自分にはそれだけしかできない。
それでもただただ呼びかけて、コムイの埋められた頭をそろそろと抱き寄せた。
どうか、奇跡のような何かが夢の中でこの腕をこの人の大切な人のそれに変えるようにと願いを込めて。
暖かくて柔らかい。
目が覚めて一番初めに知覚した感覚がこれだった。
少し肌寒い空気が心許なくて、暖かなそれを引き寄せると額に何か芯のあるものが触れた。
「ん……」
極至近距離で零された声で一気に意識が覚醒したにも拘わらず、この声の掠れ具合に折角目覚めた思考が混乱した。
少し重たいと思っていた腕を枕にして、わざわざアジア支部から助っ人に来てくれていたバクが寝息を発てている。
一体全体何があったのかと、必死で昨日の記憶を探ると共に周囲を見渡す。
本がぎっしり詰まった本棚と簡単な机と椅子しかない室内を順に見ていって、最終的にはつっかえ棒の外れたままの扉まで目に収めた。
そこで、恐らく昨日のことであろう記憶が一気に甦る。
なるほど、こんな環境で眠ってしまえば喉の一つ枯れてしまってもおかしくない。
自分も似たようなものだろうから、とりあえず意識的に口内に溜めた唾液を飲み込んだ。
ぎりぎり見える壁掛け時計を確認すると、針は五時を指していて午前なのか午後なのかは判然としない。
けれど、短時間でこんな状況になるとも思えないし、多分午前なのだろう。
しかし、一体何があればこうなるのか全く分からない。
多少寒かろうが、プライドの高いバクが自ら人の腕に潜り込むとは到底思えなかった。
では、自分の所業か、と自問するが、だからといって詳細が思い出せるわけでもない。
けれど、夢現の自分がバクを抱き込んで再び眠りについたと考えた方がいくらかありえる気がする。
だがしかし、だとするとバクは始めから床で寝ていたことにはなるまいか。
こちらが床で寝ていたというのにはそれなりに理由があったが、バクが床で寝る利点がないのだ。
彼女ならあの椅子に座って机に突っ伏したとしても何の問題もないはずなのに。
「ん、……?」
頭をあっちこっちに動かしていた振動からか、再びバクが小さく声を上げて今度は身じろいだ。
普段は薄い色素故に目立たないけれど、近くで見れば光りを弾く睫がふるふると震える。
それからうっすらと開いていた唇が軽く結ばれた。
ああ、起きてしまう。
「しーつーちょー! って、うわあああ!?」
緊張していたからであろうか、かなり近くまで来ないと足音に気が付かなかった。
荒々しく扉を開かれて科学班の数人が乗り込んで来た瞬間、バクの瞼が一気に見開かれる。
「え、あ」
目覚めたものの状況が飲み込めないようで、バクが意味のない声を上げる。
細く掠れたその声を聞いた途端、沸騰寸前だったはずの空気が凍りついた。
気配だけで科学班の全員が考えていることは明らかだったが、目覚めたばかりのバクは漸く自分がどこにいるか気づいた体たらくである。
腕の中にいるバクが頬を真っ赤にして声も上げられずに手で胸を押して逃げようとするのを見て、自分がしっかりしなければ事態は混乱を極めると悟った。
「俺らが仕事してる間に――」
「それは違うよ」
何が違うのか自分でもよく分からなかったが、真剣そのものの口調で否定した。
同い年である彼女には失礼なことかもしれないが、それでもやはりこの子を助けなければと思ってしまう。
科学班の面々があれこれと吹聴して回るような輩でないのは重々承知しているが、一晩行方不明だという事実は他も知るところになっているだろう。
そこで真実が語られなければ、勝手にそれらしい想像が実しやか語られることになってしまう。
そこに彼女の不名誉になるものが交ざっていたら、どうやって謝ればいいのか見当も付かない。
どのように話せばこの場の全員を納得させられるような論述になりうるか、失敗が許されない分随分慎重に考えながらバクを支えながらまずは床に座る。
視界の隅に入った予想通りに皺の入った帽子をひとまずは彼女に返して、彼女にしか聞こえないように大丈夫だと囁いた。