戸を開けるとそこは戦争地帯だった。

 やれ卵の数が足りないだの、トマトのも持って行けだの騒がしくて仕方がない。
 部屋の中で唯一平生と変わらない一番奥の机に迂回しながら進むと、その机の主がひらひらと手招きをしてきた。
 そのまま奥に辿り着いて、勧められるままに明らかに急ごしらえの簡素な机の前にあるそれなりにしっかりしている椅子に腰掛ける。


「バクちゃんもいる?」


「いる……が、人数分持ってきてないのか?」


 目の前で繰り広げられている騒ぎを見ながら、手渡されたツナのサンドイッチに口を付ける。
 皿の上に一種類につき一つずつ置いてあるので、一個ずつ食べれば良いのだろう。


「持って来てるんだけど、いつもこうなっちゃうんだよね」


「つまり、一人一種類で食べる気がないと」


 ガキか、と小さく呟けば、仕方がないという風にコムイが笑った。



「やっぱり疲れてくると自制が効かなくなっちゃうみたいで」


「ホワイトボードに欲しい分だけ書くとか」


 サンドイッチだけでは栄養面など期待できないので、いっそのこと好きな物ばかり食べれば良いのではなかろうか。
 んー、とかなんとか言いながらトマトとチーズのサンドイッチを咀嚼するコムイはもしかしたらまだ自制が効いている方なのかもしれないと思うと何だか先行きが不安になってくる。
 疲れていないわけではないのだろうけど。


「注文に間違いがあったときを考えるとぞっとしないよね」


 やっと納まりつつも不平不満の零れる渦中を見てしまうと、決して鼻では笑えない。


「あ、そうそう、これバクちゃんのだから」


 クリーム色のマグカップを机に置かれ、後に続かない砂糖壷やミルク瓶に違和感を抱く。
 それからやっとコップの中を見て、ちょっとした衝撃に息を飲み込んだ。


「ミルク多めで砂糖なしだったよね?」


「お前、人の誕生日を忘れておきながらどうしてこんなことが覚えてられるんだ……?」


 別にコムイに自分の好みの配分なんて教えたこともないのに、いつの間に見ていたというのか。
 じんわりと胸が焼けるような感覚がそのまま顔に現れていてはいけないので、とろみの付いた色合いのコーヒーに顔ごと視線を移す。


「いや、あれから反省して、もうちょっと人のあれこれを覚えようかと思って」


 水面に映った己の表情はまだ見れたものだったのではないかと思う。


「……ほら、さっさと食って仕事するぞ」


 但し、まろい水面では色彩が映し出せないのが気掛かりではあったけれど。









 食事時間が終了して、途端に静かになった科学班室の室長の椅子はコムイが資料室巡礼の旅に出てしまったために空席である。
 どこに何があるかくらいの把握はしてはいるだろうが、その資料が実は蜃気楼だったというのは良くある話だ。
 そして、思っていた資料が実は蜃気楼であって役に立たないとなると、事態が泥沼の一途を辿ることもままあることだ。
 どうやらコムイはそんな状態に陥っているらしく、遅くなるという伝言を部下に託した後一度も部屋に帰ってきていない。

 それなりに読みやすい字と大体まとめられた資料をもう少ししっかりした字でちゃんとまとめて清書していると、謎の記号に行き当たった。


「千六百四十二万千五百一?」


 一瞬一がlで〇がOかと思ったが、アラビア数字で16421501と書いてある方が辻褄が合う。


「どうしたんすか?」


「いや、妙な数字が」


 斜め前辺りに座っていた男がキャスター付きの椅子ごとこちらに下がってきたので、見やすいように資料を差し出す。


「どれどれ、ええとこれは……。ん? えええ!?」


 一瞬思い当たるものがあったのか表情を明るくして上げようとした顔が、ぎりぎりのところで紙面に繋ぎ止められる。
 時間が経てば経つほど眉間の皺が深くなり、しまいには驚愕の悲鳴まで上げられた。


「なんだこりゃ? 何かの略称?」


「数字だけっていうのも何か変だよな……」


「それくらい内々で決めてないのか?」


 異変に気づいてやって来ては次々に紙面を覗込んで疑問符を浮かべまくる科学班に交じって同じように疑問符を浮かべた。


「もちろんっすよ。しかし、あの室長弄るのは物質だけでは飽き足らないんすかね……!」


 言語界にまで手を出しやがって、と絶叫する面々を前にして溜め息を吐く他ない。
 全ての物事に対して貧乏は敵だというけれど、それを貧乏暇なしという言葉が裏打ちしている気がする。
 暇がないということは余裕がないということ。
 即ち、多々起こる行き違いや、今回のこの資料のような問題を引き起こすのである。
 この略語だって、一人で完成稿まで作るのならなんら問題は起きなかったはずだ。
 しかし現在特異な状況であり、ぎりぎりで回っていた現場はそれに対応できないのだ。


「……本人に聞いて来る」


「ついでにこれお願いします」


 親指で首を掻き切る仕草だけでは飽き足らなかったらしく、その指先を床に向ける。
 とりあえず、返事は親指を天に向けるだけに止めた。

 箱舟が来てしまって手が足りなくて、外の支部から人員を駆り出すのは理解できる。
 こちらとしても箱舟に好奇心があったから、半ば無理やり自分の名を名簿に乗せたのだ。

 しかし、しかしだ。
 それは良いとしても、所詮他所者が室長の資料など触っても良いものだろうか。
 自分ならたとえ相手のいくら能力を認め、信用していたとしても任せはしないだろう。
 あれは自らの内で見せられる物は最大限に見せる傾向にあるのは了解済みなので、まだ見せても大丈夫な資料ということなのだろうが。

 でもそれは、見せられない物は相当のことがないと見せないということでもある。


「全く、面倒な奴だ」


 傷だらけの妹を見たとき、確かに彼は優しく笑ったけれど。









 沢山の資料がある割には清掃がなされていて、あまり黴臭さは感じない。
 空調も正常に働いているらしく、資料室はそれなりもの湿度と少し涼しさを覚える程度の温度に保たれていた。


「ああ、それ参照番号。確か会議録の号数とページと行数の数字だけ書いたんだ」


「ああ?」


「いや、だからね? ちょっと一緒にあった方が分かりやすいかなーって思って書いただけで、資料作る分には実は全然関係ないっ――バクちゃんごめん、悪かったって!」


 資料室にいたコムイの説明は当然ながら許されるものではなかった。
 どちらにせよなんらかの報復を加えるつもりではあったので、この足を踵で踏まれる事態は彼にとって避けられることではなかっただろうが。
 無言で足首に捻りを加えてから、遥か彼方にあるようにも思えるコムイの顔を見上げる。


「……これがお前の部下からの伝言だ」


 リーバーだったかがしたように二つのジェスチャーをした後、踏みにじっていた足の甲を解放する。


「いったー……。折れたらどうするつもりだったんだい?」


「仕事がはかどって良いんじゃないか?」


 踏み付けられていた方の足をぷらぷらと宙に浮かせながら、ちゃんと動くことを確認しているらしいコムイに吐き捨てるように告げる。
 足が折れていれば椅子に縛り付けるのも容易いだろう。


「酷いな。僕だってちゃんと仕事してるんだよ?」


 だからここで奮闘していたわけだし、とコムイが自らで積み上げたのだろう本の山を指さす。


「じゃあ――ん?」


 じゃあ外部の者にもできる仕事をちゃんと選べ、と続けるつもりだったのに、妙な音が聞こえてきて意識が霧散した。
 大勢の人が働いている辺りとは違って、資料室は地下の方にあるので基本的に非常に静かだ。
 もちろんここまで来る間に聞こえていたのも自分の足音くらいだった。
 だからこそ、予想しない音が聞こえてくれば当然気になる。
 そしてそれが何であったか気づいた瞬間、一気に血の気が引いた。


「コムイ、ここの鍵の構造はどうなっている!?」


 叫びながら扉のドアノブを握るが、時既に遅く。


「外からの鍵が基本で、内鍵はご覧のようにつっかえ棒だ」


「ああ、うん。それは分かるとも……」


 そう告げる間にも、手元では硬質な金属が悲鳴を上げていた。
 まずい。
 相当まずい。


「ここのね、つっかえ棒が下がってないと扉の向こうの印が付かないようになってるんだ」


「そうしないと中に人がいないか分かり辛いからな」


 耳たぶを抑えているわけでもないのに、心音が聞こえてきそうだった。
 それなのに声は平静時以上に落ち着いたというか、感情の籠もっていない声だったのに我ながら驚く。


「普段なら、締まってなくても中に人がいないか確認するんだけどな……」


「……これだから、余裕のない所は嫌いなんだ」


 一瞬扉を蹴破れないかと材質を確認してはみたものの、触れた板の冷たさは金属のそれである。
 一縷の望みすらない。
 コムイが自分を招き入れた際に下ろしそびれたのだろうが、水掛け論になりそうなので言及は避けた。
 何回も出入りしている所だというのに、コムイの行動に気づかなかった自分も悪い。
 溜め息を吐きながら振り返れば、さすがに戸惑った様子のコムイが先程まで見ていたノブを覗き込んでいた。


「まあ幸い、僕がどこにいるのかもバクちゃんが何の用事で来たのかも皆知ってるわけだし、余りにも帰ってこなかったら探しに来てくれるんじゃないかな?」


「ああ、まあそうなるだろうな」


 幾らコムイが遅くなるとは言っていても、自分まで帰ってこなければ訝しむ者も現れるだろう、多分。


「とりあえず僕は資料探すけど、良かったら手伝ってくれないかな?」


「分かった」


 コムイの提案にすぐさま答える。
 手伝いに来ながら、結局資料室に籠もりきりでしたでは余りだ。


 それから二人して資料捜索を始めたのだが、予想以上に強敵だった。
 それらしい冊子を見つけてから、まとめ上げるまで二時間近くかかってしまった。
 けれどそれも終わってしまえば、後にするべきことは何もなかった。
 あえて挙げるなら救出を待つくらいなのだが、それこそ寝ていてもできることだ。


「どうしようバクちゃん……やることないって思ったら凄い睡魔が」


 暇つぶしがてら目を通していた最新の研究結果から顔を上げると、伊達らしい眼鏡を外して瞼を擦るコムイが何となく哀れだった。


「疲れてるんだろう、休みだと思って寝てしまえば良いんじゃないか?」


 本部がいかに多忙かは自分も知るところであるし、実際眼鏡を外すと目の下に浮かぶ隈がよく分かる。
 そういう状況の人物を無理やり起こしておくような趣味はない。


「そうだね、じゃあ寝かせてもらおうかな……」


「おい、何故立つ必要がある」


 小さく掛け声を掛けながら作業用の席から当然のように立ち上がるコムイの意図が分からない。
 ここにあるのは本に本棚、それに机に椅子だけで、ベッド替わりになるような代物は見当たらない。


「いや、床で寝ようと思って」


 向こうは未だ自分の行動になんら疑問点を持っていないようで、こっちが馬鹿にされているような気がしてくる。
 確かにこの部屋の床には防音用に足の短い絨毯がびっしり敷き詰められているものの、机に突っ伏して寝た方が幾分かましなように思えた。
 しかし、彼が本気で発言しているのなら、ちゃんとした理由があるはずなのだ。


「――ああ、そうか。お前無駄にでかいからな」


 ここにある机は一つ一つ分離できるようになっていて、一つの幅は案外狭い上にわざわざ板で足と足の間が仕切られている。
 普通にしている分は何の問題もないが、眠るとなると男性の骨格上膝やらが当たって痛いのだろう。
 コムイの場合は足の長さがあるせいで余計辛そうだ。


「そういうこと」


「でか過ぎるのも考えものだな。いくらか私にくれれば良いのに」


 上着を床に敷くのか被るのか定かではないが、とにかく脱ぎながら壁際に寄っていくコムイの背にどうしようもない希望を投げかけた。
 戦闘をするでもなし、事務系統の仕事に身長はいらないと一般的には思われがちではある。
 しかし、資料室等で後数センチ背丈があれば簡単に取れそうな本が取れないなど細かいところで支障が出てくるのだ。
 少なくとも女性の平均身長くらいに身長があれば色々と解決しそうに思うのだけど。


「えー、駄目だよ。折角バクちゃんちっちゃくて可愛いのに」


 一体コムイがどんな顔をして言ったのかは、背を向けられていたから分からなかった。
 声色から恐らく何かを意図した風には思えなかったが、どちらにせよこちらを向いていなくて助かったとしかいいようがない。
 コムイが自分を見ていたら、ほぼ百パーセントに近い確率でばれていたに違いない。
 今日は厄日か何かか。


「……褒めても何も出んからな」


 頬に触れるとあの僅かな時間だけでここまで熱が集まるだろうかと不思議に思うくらいに熱かった。
 ああ、それにしても、好いた男にそんな風に言われて、平静でいられる女が一体どこにいるだろう。
 今振り向かれればきっと伝わるだろうともう一度考えた瞬間、火照り切っていたと思っていた体が更に熱を帯びた気がした。

 今振り向けば。
 そう、今振り向けばコムイであろうとも。


「わ!」


 おやすみとでも言うつもりだったのか、振り向く素振りを見せたコムイに殆ど反射的に帽子を投げ付けてしまった。


「そ、それでも頭に敷いておけ!」


 自分でも訳の分からない行動にどうにか理由をつけると、資料を片付けるふりをするために立ち上がった。
 まただ。
 こういうことは多々とまではいかなくとも、それなりにあったというのにいつも最後の最後で逃げ出してしまう。
 結局、自分は答えを見せつけられたくないのだ。
 遠に知っているはずなのに。

 臆病者。


「……跡残っちゃうよ?」


「別に構わん。この後どれだけ休めるか分からないし、お前の代わりはいないんだ。今の内にできるだけちゃんと休めば良いさ」


 顔を本棚の方に向けているので、本に声が吸収されないよう意識的に声を張る。


「あれ? バクちゃん室長になりたくないの?」


「ちゃんとした引き継ぎができるなら是非ほしいがな」


 会話を続ける内に、少しずつ鼓動やら何やらが落ち着いてきた。
 一度片付けた資料をもう一度引っ張り出すかどうか迷ったが、大体読み切っていたので隣の資料に手を掛ける。


「確かに。じゃあ、そろそろ寝るね。おやすみ」


「ああ、おやすみ」


 資料を持って帰ってきて椅子に座ると、眩しさのためか壁の方を向いて転がっているコムイが見えた。
 耳を澄ませて聞いてみれば、既に呼吸が寝息のそれに変わりつつある。
 しっかりと折り畳まれて頭の下に敷いてある帽子を見ながら、迎えが少しでも遅くなったとしても構わないかもしれないと少し不謹慎なことを思った。