コムイが本部室長に選ばれ、自らがアジア支部長の椅子についてから面と向かって話す頻度はかなり減ってしまった。
比較的穏やかになった日々の代償に、コムイは人の精神に風穴を開けていったようだった。
始めは張り合う人物のいない無味乾燥さがそうさせるのだと信じ込んでいたものの、定期集会の際にそれは脆くも崩れ去った。
それからずっと、ちりちりと背を這い上る感覚に長く苛まれている。
これ以上甘美で幸福な苦痛を私は知らない。
「コムイさんって、付き合ってる人っていないんですか?」
箱舟がやってきてばたばたしているところ悪いのだが、コムイとすれ違った瞬間にあのときのことを思い出した。
ほら、こういうことを中途半端にしておくと精神衛生上良くないし。
「いないよ」
昼食らしいサンドイッチのバスケットを片手に、コムイがある意味予想通りの返事を返してくる。
「じゃあ、リナリー以外に好きな人は?」
「リナリー以外……? んー、今はそういう人もいないかな。それがどうかしたの?」
先程よりは間があったが、それでも事もなげにコムイが告げる。
余りにも取り付く島のない態度にちょっと絶望的な気持ちになりながら、元々準備しておいた理由を引っ張り出した。
「いえ、科学班の人ってそういうのどうしてるのかなって思って。常に働いてません?」
「はははは、かもね。でもこうやって働きづめするのも若いときにしかできないから、もうちょっと年を取ったら自ずと皆余裕ができるんじゃないかなあ」
あ、でも僕はリナリー一筋だから、と宣言されて、何だか目頭が熱くなってくる。
自分の認識が間違っていなければ、この男は相当酷い奴だ。
そして、残念ながらあの認識が勘違いだとは到底思えはしないのだ。
「下らないことで引き留めてすみませんでした」
胸の内で思うことは完全に押し殺して、僕ことアレン・ウォーカーは最上級の笑みを生み出した。
「そんな顔してどうしたんさ?」
コムイと別れた後すぐに着いた食卓で、厚く切ったベーコンと半熟の目玉焼きを乗せた食パンにかぶりつこうとしていたらラビに首を傾げられた。
それから何故か、自分がやけに朝食のようなメニューを食べようとしていることに気が付く。
昼なのに。
「いえ、まさかこんな所で神田と席を並べるとは露とも思わず……」
「え、それ座る前から分かってた話じゃね?」
斜め横に座る神田の方から金属が触れ合うような音がするが、視線は向けずに食パンを頬張る。
ラビもそれに習ってか、シーザーサラダの半熟卵をスプーンで掬った。
「柄が鳴るのって整備不足からくるんじゃありませんでしたっけ?」
具を飲み込んでから水を飲むまでの間に、威嚇のために鳴らしたであろう臨時らしい刀を貶しておく。
イノセンスの武器にその辺の常識が通じるかは分からないが、一応神田の機嫌を逆立てるのには成功したらしい。
「アレン、何があったかお兄さんに話してみるさ! ほら、気が楽になるかもしれないし!」
このままでは食堂が戦場になるかと危ぶんだらしいラビがテーブルに身を乗り出して、注意を自身に向けようと自己主張をしてくる。
そんなことをしなくても、神聖な食事場を血で荒らす気など毛頭ないのに。
「いえね、ただコムイさんが予想以上に朴念仁というか、バク・チャンって人知ってます?」
「ああ、アジア支部長か」
予想外の方向から返事が返ってきて、今日初めて神田の方に視線を向ける。
再び口を開く意志がないということなのかそれとも食欲が優っただけなのか知らないが、そのときには既に蕎麦を啜り始めていた。
「六幻はアジア支部の奴が作った武器だから、俺よりもユウの方があっちのことは詳しいかもしらんね。ちなみに俺もバクさんのことは知ってるさ」
二口目の蕎麦を口に含んだ神田の言葉をラビが引き継いだ。
一瞬視線を鋭くして神田がラビを睨んだが、それ以上のアクションはない。
食べ物の力は偉大である。
「で、そのバクさんが」
一瞬あっさりと暴露して良いものか分からなくなって、軽くラビを手招きする。
差し出されたラビの耳元に手を添えて、どうもコムイさんのことが好きらしい、と囁いた。
「なんだそりゃ?」
「思い違いじゃねえか?」
どうも神田の方までしっかり届いていたらしく、ほぼ同じタイミングで疑問符が放たれた。
禄に検討されるまでもなく予想が棄却されてしまったのは、一重に二人の性質が関係しているのだとは思う。
女性でありながら俺様気質を兼ね備えるバクがどうして妹一筋のコムイに恋をしているのか正直理由が分からない。
けれど、どうもそうらしいといえる最大級のカードを自分は持っている。
「……写真、持ってたんですよ。バクさんがファイル落としたときにするっと出てきて」
「えー、何その遠恋アイテム。というか、それただの名簿の資料じゃね?」
「でも、公式の資料に満面の笑顔って使いますか?」
俄には信じられないとしたラビに畳み掛けて情報を追加すると、急に真実味が増したらしくラビが黙り込む。
「……何があったらそんなシチュエーションで撮れんだ?」
純粋に疑問に思ったらしく、神田が独りごちるように呟いた。
「いえ、コムイさんに限っては簡単だと思うんですよ。まず、コムイさんがリナリーと一緒にいるところに行って」
そこまで告げて、四角い何かを持っているジェスチャーをする。
「『これ新しいカメラなんですよ。試し撮りしたいなあと思って』とでも言ったら」
「なるほど。『じゃあ、僕の可愛いリナリーを撮れば良いよ!』と言いながらコムイがフレームに収まろうとするわけさね」
目に浮かぶというように笑いながらラビが続ける。
どうやら言葉のキャッチボールは完璧に成立しているらしい。
「で、ばしゃーとコムイさんだけ撮って『すみません失敗しました!』でもう一回ばしゃー」
バクが本当にそんな手法を使ったかはいざ知らず、こんな風に付け込む隙は多々あるだろう。
そうでなくとも普通に写真を撮らせてくれと頼んだら、あっさり了承してくれそうに思うのは自分だけだろうか。
「しかし、何であんな変態好きになんだよ」
「うわあ容赦ねー」
理解できないと切り捨てる神田を全面的に非難できないのか、ラビが弱々しく口にした。
まあ、その感覚は分からなくもないが。
「そりゃあ、こいの」
恋のとまで言ったところで、自らの多大なる失態に気が付いた。
まずい、やってしまった。
先に続くべき言葉が途切れたのが着火点になったのか、ラビがわざとらしいくらい盛大に吹き出して机に突っ伏す。
「言えよ」
「いや、それはその」
意図があってのことなのか分からないが、小恥ずかしい発言を神田が強要してくる。
「自分が言ったことの責任くらい取れよこのモヤシ」
きっかり蕎麦を啜る分だけ言い訳の時間を与えてから、神田がぴしゃりとこちらの葛藤を始めとする色々なものを撥ね付ける。
「字面だけ読むとすっげえ正当!」
笑いを含んだ叫びをバネに机から離れたラビが口元を押さえながら、先程まで胴体のあった机に肘を着いた。
「いやー、でもそれって相当――」
「そんなこと言ってからもてねえんだよ、ガキ共」
「師匠! 何で……ああ、いえ、やっぱり良いです分かりました」
ちょうどラビと神田の後ろにいつの間にか現れていたクロスが場違いに思えて問いただそうとしたが、視界に入ったボトルを見てどうでもよくなる。
酒ある所にこの師あり。
「じゃあクロス元帥言えるんすか?」
ラビが顎を上げながら、もちろん格好良く、と付け加える。
「んー? 俺はそもそも意図的に落とさなくても良いしなあ……」
言外に放っておいても女は寄ってくると言われたのだが、強ち嘘でもないのが恐ろしい。
そのくせ後ろから刺されないのが不思議でもある。
「敵前逃亡しないで下さいよ、師匠」
「ったっても、こんな男塗れの場所で言っても気が入らん」
「きもいだけっすもんね」
「賑やかですね」
男の声しかしない中に急にトーンの高い声が交ざり込んできて、思わずそちらに顔を向けた。
「え、どうしたの皆」
一同が似たような反応を返したらしく、少々リナリーが身構えた。
体に近づけた手に握られたポットが小さな水音を立てる。
「科学班に差し入れですか?」
「うん、どうせ兄さんサンドイッチしか持っていってないと思うから」
リナリーがふわりと口元を綻ばすと、正面から小さな破裂音が聞こえた。
視線を戻すとラビが握り拳をもう片方の手の平に収めている。
顔を上げるとラビを見下ろしていたらしいクロスと一瞬目が合った。
「リナリー。恋って奴にどうして落ちるか知ってるか?」
ラビと神田の後ろからリナリーの元へ移動しながら、クロスが机にワインボトルをそっと置く。
「え、突然どうしたんですか?」
「……その様子じゃ知らねえな。いけねえなあ、戦うだけじゃ人間乾いちまうぜ?」
さっきまでワインを持っていた手でリナリーからコーヒーポットを奪い取って、赤くなっているかもしれない彼女の指先を労るように撫ぜた。
さすがに異変を感じ取ったリナリーが身を引こうとするけれど、一足先にポットを机に避難させて自由になったクロスの腕が逃げる背中を食い止める。
そっと顎のラインに指が這わされたところまで確認してから、静かに椅子を引いた。
「恋に理由とか理屈なんざ捏ねてたら、いい加減俺達は滅びちまってるぜ? 魔法なんだよ、恋って奴はな」
「犯罪です」
どうせ真面に当たりやしない確信があったので、クロスが持ち込んだボトルで後頭部をフルスイングする。
やはり極々自然にリナリーを抱き上げて前方に回避されていて、歯を噛み締めればぎちりと鳴った。
「澱が壊れるだろ馬鹿弟子」
「片手でぶら下げておきながら今更何を」
リナリーを解放した手でクロスが銃器に手を掛けるのを見て、左手を解しながら腰を落とす。
この至近距離ならタックルでも仕掛けて重心を振らすのが得策だが、あまりにも分かりやすすぎて簡単に避けられてしまうだろう。
というより、まず暴れ過ぎると机の上に鎮座しているはずのホワイトソースと三種の青菜のオムレツに危険が及んでしまう。
どうしよう。
「あ、あの! さっきからどうしたんですか?」
リナリーがちゃっかりコーヒーポットを確保しながら、注意を引こうと声を上げる。
それを聞いて、クロスが銃器から腰に手を滑らせて虚空を見上げた。
「……なんでお前ら恋の魔法とか言ってたんだ?」
「ええと、バクさんとコムイさんのことなんですが」
とりあえず後ろ手でボトルを机において、先程までの会話を脳裏に甦らせる。
「ああ? あいつらまだくっついてないのか?」
「そうなんですよねえ」
クロスが呆れ返って頭を掻いたのを見て、リナリーが溜め息交じりに応じた。
「え、実はこの話有名だったり?」
ブックマンの名折れ、と机にへたり込むラビを神田が冷たい瞳で見下ろしているが、別段咎める気も起こらない。
「んー、科学班の皆なら薄々感づいてるかも」
「じゃあなんで師匠が知ってるんですか」
本部に禄にいないクロスがどうしてそんなことを知っているのか分からなかったので、素直に聞いてみる。
「いい加減くっつきゃ良いのにな。二人とももう良い齢だろ?」
「もう二十九歳なんだから、もう遅すぎるくらいなんですけど……」
人の疑問を極シンプルにスルーして、クロスが比較的穏当な言葉をリナリーに投げかける。
リナリーも一瞬面食らった様子だったが、結局は井戸端会議中の母親のような台詞を吐き出した。
「ちょっと、何したっていうんですか、師匠……」
言うには言ってみたが、真実を語られた瞬間本当に師弟の縁が切れてしまいそうで語尾は弱々しく掠れて消えた。