13



 目覚ましの音で目を覚ますなんていつ振りことだろうか。
 セットした時間より十分かそこら延長してはいるが、そんなものは普段の有様を思えばないものと一緒だ。
 とりあえず、目覚ましを止めた手で口元を押さえながら欠伸をして、ゆっくりと起き上がる。
 体調は上々。
 思考の端々まで澄み渡っていて、こういう生活も悪くないと思うほどである。
 どうせ三日後には普段のそれに逆戻りしているだろうが。


 けれど、同時にその晴れ晴れとした意識が憎らしい。
 昨日のことを否応なく鮮明に思い出して、自らを責めずにはいられないのだ。
 怖くて、放された手から逃れてしまった。
 留まってしまっては、変わらざるを得ないと確信して恐怖した。


 早く仕事を済ましてちゃんとした時間に夕食を取り、何人かでうだうだと喋って早めに寝る。
 一般的には普通といっても差し支えのない行動だが、残念ながらコムイ・リーからすればあらぬ噂されそうなほど珍妙な出来事なのだ。
 フェイに言われた通り、突拍子もないことをやってみた。
 けれど、最後の最後に逃げ出してしまったのだからしょうがない。
 引かれた手の重みは身震いするほどに甘美で、彼女に惹かれている自分を否応なく意識させた。


 そう。その通りだ。
 自分は、コムイ・リーという人間がバク・チャンに惹かれていると認めよう。
 それが精神的にであれ肉体的にであれ、間違いなく彼女を欲している。
 しかしそこに打算はないのか、と問われれば否定などできない。
 自らの論理的なところが、彼女の恋情を好都合だと計算したのかもしれない。
 愛していると口にして幸せになれるのなら、それで構わないのかもしれない。
 彼女に対する懊悩が自分のものでなかったら、迷わずそれでいいと告げるだろう。
 親愛を、肉欲を愛だと思えばいい。
 その手の感情は分けることなどできはしないのだ、と簡単に提言してしまうだろう。
 むしろ、一緒くたであってこそのものなのだ。
 どの好きとかそういう問題ではない。
 突き放してしまえば、愛の定義など誰一人明確に悟ったことなどないのだ。


 だがしかし、自分のこととなると様相は一変する。
 要するに、やはり確信が持てないのだ。
 愛だと思ったものが、勘違いだとしたらどうすればいいのだろう。
 もしかしたら今、底に抱えている欲求がただの生理現象だったとしたら。
 ありていに吐露してしまえば、体よくやれそうな女がいるからムラムラしているだけ、という可能性が否めないのである。
 正直、バクでない者からの申し出ならあっさり受けていたかもしれない。
 夢も何もない話だが、子供は作らねばならないのだからむしろありがたいくらいだ。
 何しろわざわざ町に下りずとも事足りるようになるのだ。
 ああそういえば最近処理すらしてないな。


「……いやそうじゃなくて」


 大仰に首を振ってから、ベッドに手を付いて勢いよく起き上がった。
 うだうだとベッドの中でまどろみながら思い悩むなど、自分にはあまりにも贅沢すぎるだろう。









「いやでも、あれくらいの町ならあるだろ」

「あるのといいのは違うって」


 やいのやいのという表現が似合いそうな様子で男共が盛り上がっているので完璧に話しかけそびれてしまった。
 ほぼ全員が食いついているところを見るに、風俗街のことでも話し込んでいるのだろう。
 カトリックであるヴァチカンの一組織であるとはいえ、科学に加担していれば神の教えから離れてしまっている部分は間違いなくある。
 そもそも世界中から人々が集う場所で、自らの信仰が何よりも正しいなど主張できるはずがないのだ。
 それ故、ここで信仰は生活規範にはなりえないし、議論の的という点でも同様だ。
 かといって風俗街で放蕩するのはいただけないので、節度を守らねばならない。
 教義にないことを律するには理屈がなければならないと主張する者もいるが、駄目なものは駄目というものも少なからずあるとは思う。
 今回の件は理由も付けられるが、わざわざ説明するまでもないだろう。


 だからといって、風俗街に行くのが好ましくないと咎めるつもりは一切ない。
 若い内は冗談抜きで性欲を持て余すものだし、身体的にも溜めている一方では不都合が出る。
 相手がいなくても解消はできるが、すっきり発散させようと思うと直接的な手段が一番手っ取り早い。


「――って、室長!?」


 ああ、でも、とか何とか言おうとしたリーバーが突如こちらに気づいたらしく、キャスター付きの椅子を吹き飛ばしながら立ち上がる。
 他の面々も途端にこちらと距離を取るように後ろに下がった。


「……大丈夫ですか? 熱とかあるんじゃ」


 大分間があってからおずおずと聞かれ、思わずこめかみに指を乗せる。
 別に本当に痛むわけではないが、指圧すると気持ちが少し晴れた気がした。


「人がちょっとちゃんと起きたからって何なんだい」

「いえ、大事件です」


 全会一致の意見らしく、その場の全員から深々と何度も頷かれる。


「……ところで、まだ誰も遊びに行ったことなかったっけ?」


 一度視線を床に落として間を取るついでに重圧を凌いで、これ以上話題を発展させたくないので代わりに問いかける。


「はい、そうなんですよ。俺、この前休みだったんすけど、一日中寝ちまってどこにも行ってなくて」

「最近、遊びに行っても疲れるだけなんだよねえ」


 以前は結構歓楽街や風俗街に行っていたのだけれど、めっきり回数が減ってしまっている。
 リーバーも似たような状況らしく、腕を組んで感慨深そうに頷いた。


「昔は楽しみでしかたなかったはずなんすけど、歳ですかねえ」

「あんまり言いたくないけど、十代とか性欲の塊だった気がするよ。むしろ最近はいらないことを考えちゃうんだよね」


 もしかしたらもっと早くに彼女の思いに気がついていれば簡単な話だったのかもしれないとは思うが、一応今は封をしておく。
 今でいういらないことはまた別のところにある話題なのだ。


「あー、後継ぎとか?」

「そうなんだよねえ……」


 脇から聞こえてきた回答に相槌を打って、実際問題として結構重要な懸案に溜め息を吐く。


「でもそれも面倒じゃないですか?」 

「え、それ面倒って男としてどうなんですか」

「いや、分かる。もう面倒臭いもん!」


 比較的若い班員が眉間に皺を寄せたが、年長の面子はどうやらこちらの味方らしい。
 リーバーが心底理解できない様子の班員を人差し指で指名して、一度大きく息を吸い込んだ。


「まずそれなりの女探すだろ? で、声かけて、奢って、話して話し聞いて、向こうの感じ探って、家離れても大丈夫か確認して、やるなり何なりしながら何度も会って、信用できると踏んだらこっちの身分明かしてとかやってられっか!」


 説明している内にうんざりしてきたらしいリーバーが最後の最後に吐き捨てる。
 教団内で何とかなったら楽ではあるのだが、男女比率が不平等なのでいかんせん外部調達が必要になるのだ。


「そういうこと考えたら、何か義務感が出てきて萎えるんだよね」

「室長の場合はまじで義務ですもんね」


 偉くなるって大変だわ、と他人事全開で呟かれて軽く相手を小突く。
 いっそのこと、全員偉くなって悩めばいいのだ。


「じゃあいっそのこと、面倒臭くならない内に相手を探した方がいいんですかね?」

「……俺、それやったら先に向こうが本気になって、将来のこととかベッドであれこれ言われて堪えられなくなったことある」


 小さな挙手つきの告白にテンションの差はあれど、ほぼ全員が面倒臭いと異口同音に口走る。
 意図的に人を好きになることの、なんと大変なことかを物語っているといえるだろう。


「わざわざそんなことしなくたって、教会から見繕ってもらえないんですか?」

「……あるんだよなあ。あるんだけどなあ」

「何だかんだ言って、俺達俗世を打っちゃって研究に明け暮れてる馬鹿野郎だろ? 簡単に渡されて、ちゃんとやってけるか不安なんだよな」

「研究も何もないところで信頼関係築かなきゃいけないんだもんね」


 町でうまく女性を引っ掛けられたならそれなりに好みだろうし、すでにそれなりの関係が出来上がっているのだ。
 しかし、他者主導の見合いではまず、相性が合うかが未知数である。
 その上、相手がこちらの事情を知っているだろうからと思うと、甘えが出てきて研究に没頭しておざなりにしてしまうかもしれない。
 始めこそ楽かもしれないが、後々を考えると気が重い。


「でも、義務で恋愛とかできますかね?」

「それは論点がずれてるだろ。恋愛で結婚するわけじゃないんだし」


 ジョニーが頭を傾けた拍子に傾いた眼鏡を直す間に、リーバーがひらひらと手を振って指摘する。
 論点といってしまえば始めの話題は近辺の町に質のいい娼館があるかどうかだったのだから、それさえも間違っているのだがそれはさておき。


「そうだねえ、やっぱりさっきも言ったけど信頼関係の構築が重要なのかな。信用だけじゃなくてさ、会って話して楽しいがなくっちゃしんどいんじゃない?」


 今の自分とバクとの関係はその条件からかけ離れている気がして、思わず重たい息が漏れる。
 確かに昨日は楽しかったが、ほんの少しの出来事で全て壊れてしまうほどに脆いものなのだ。


「……それって恋愛とどう違うんです?」


 一般論を言っていたつもりだったのだが、率直に突っ込まれて具合のいい返答が思いつかなかった。
 誰かと一緒にすごすことに必要な要素はとても感情の根源にあるもので、もしかしたら似たような言葉でしか表せないのかもしれない。
 彼女なら、一体何と言うのだろう。


「あれ? ああ、いや、ちょっと違う気がするんですけど、ホレタハレタというより情とかに近いような」

「愛情?」


 それそれ、と投げかけられた合いの手に頷いて、リーバーがちらりと時計に目をやった。
 つられて見上げた時計は始業時間を間近に控えていたので、締めの言葉にでもはいるつもりなのかもしれない。


「結局あれだな。酔っ払えるまで話が弾んで、延々とピロートークができる相手なら最高なんじゃないか? そこら辺の娼婦とじゃ、しんどいよな」


 それぞれが頷いたり反論の兆しを見せたりしたが、リーバーが大層な仕草で手を打ち鳴らして封じ込める。
 やたら間延びした発声での始業合図に、それでも皆が方々に散らばっていく。
 その中で一人だけ突っ立って、自らの言動を反芻していた。


 ああなんだ、そういうことだったのか。


「室長?」

「ごめんリーバー君、遅刻してもいいかな」


 一瞬、本当にほんの一瞬だけリーバーが眉を潜めてから、すぐさま口元に握り拳を当てた。
 どうやら笑いを抑えているらしいが、その程度で隠し隠し通せるものではない。
 もう三十路も近い男が愛だの恋だのに本気で悩んでいるだなんて、周りからしたら楽しくてしかたがないだろう。
 けれど、今はそれに腹を立てている場合ではない。
 今すぐ、伝えに行かなければならないのだ。


「まあ、今更仕事始めるときに室長がいなくても誰も文句、いや文句は言うか。……ともかく、いつも通りでいいんじゃないっすか?」


 肩を軽く竦めて笑うリーバーにありがとうとだけ礼を言って、スリッパを忌々しく思いながら科学班の研究室から飛び出した。
 いい加減、ちゃんとした靴を履いた方がいいのかもしれない。


 なんて簡単な話だったのだろうか、と呆れてしまいそうになる。
 異性に対する愛は親愛と肉欲の入り混じったものであって、どちらかであるなんてことはあっては面倒だ。
 それは既に了解済みだったはずだ。
 けれど、人と、たった一人の人と寄り添って歩いていく以上に大切なことなどありうるのだろうか。
 片方の愛しかない関係であったとしても、そんなことは些細なことでしかないのだ。
 側にいたい。話がしたい。
 率直な欲望が費えたとしても、その願いだけはなくならないだろう。


 そうして、心の輪郭に触れられるのなら、あらゆる手段を望むだろう。
 負担だなんて思わないし、むしろ喜んで手にするくらいだ。
 それで君といられるのなら、本当に些細なことなのだ。


 お願いだから、一晩中明日のための話をしよう。
 この思いは確かにたった一人のための愛だった。


 廊下を駆けていると、すれ違う人々が何事かと振り向いてくる。
 上がり始めた呼吸を何とか御しながら、バクの姿を探した。
 この時間帯だから、もしかしたらもう仕事場に移っているのかもしれない。
 彼女の作業場に続く階段の途中にある大きめの踊り場に、バクの姿を認めたのはマラソン時の呼吸法を必死に実践しだした頃合いだった。


「バクちゃん!」


 以前とは違って、バクが振り向いて何か言ったような気がした。
 反響する足音とか呼びかけに掻き消されて何一つ聞こえなかったのが、残念ながら実際のところだったが。
 状況が把握できないのか、きょとんとしてこちらを見上げてくる彼女を掬い上げて抱き寄せた。
 小さな悲鳴が耳元を掠めて、さすがにこちらよりも高い位置にある頭が仰け反りそうになったので背中を支えてやる。
 遠慮がちにではあるが頭や肩に回される手が、何よりも彼女の存在を伝えてくるように思えた。


 予想はしていたけれどえらく軽い体を抱き寄せて、いつか泣きついたときの感触を再確認する。
 優しい体だ。
 あのときは一杯一杯だったといえど、もったいないことをした。


「お、おい……!」


 呼気を整えるのを言い訳に感慨に耽っていたら、我を取り戻してきたのかバクが堪らずといった様子で呼びかけてくる。
 おろおろとした声音に不謹慎かもしれないが、口元が緩んだ。


 上向くと、ほんの少し赤い目が瞬いた。
 眠れなかったのか、それとも泣いていたのか。
 どちらにせよ自分のせいだろうと、自惚れのような感想を抱く。


「好きだよ」


 一呼吸置いても返事らしい返事は返ってこなかった。
 代わりに肩に置かれた手に力が込められて、背中を支える腕に加速度的に熱が伝わってくる。
 でも、とやにわに口元が震えて、何も見るまいと強く瞼を閉じて縮こまる。
 手がもっと自由だったなら、耳すら塞いでいたかもしれない。


「僕が、君の側にいたいんだ」


 どうにか窺えるだけ上げられた瞼に口付けて、落ち着きかけた心音がまた騒がしくなる。
 一度だけ大きく瞬きをしてから、バクが頭に添えていた手を首に回した。


「お前という奴は……」


 虚脱感を剥き出しにした溜め息を漏らしながら、バクが身を屈めて額を突き合わせる。
 頬を滑る指先はまだ心地良さを感じる冷たい体温だったが、近い内に気にならなくなってしまうだろう。


「遅いんだ、馬鹿者」


 その点についてはきっと彼女も同罪な気がするが、今回ばかりは反論する気にもならない。
 代わりに緩んだ口元に顔を寄せて、誰もいないというのに彼女に聞こえるだけの密やかな声で告白した。
 声帯を震わせずに零れ落ちた安堵の声を生涯忘れることはないだろう。









 たとえ、君が明日にでも帰ってしまうとしても、なかなか会えない日々が続くとしても、ましてやこの日々が再会すらおぼつかない日々だったとしても。
 それでも、次に会ういつかの話をしよう。


 それが僕の原点であり、君に示せる唯一の。