12



「バクちゃん!」

 黙々と、本当に延々と作業を行っていたら、コムイがノックもそこそこに荒々しく扉を開けた。
 走ってきたのか、珍しく息が荒い。
 何か用事でもあるのかと思ったが、公用なら本人が来る必要はないはずだ。
 ならば私用ということになるが、あんまり急すぎないだろうか。


 正直なところ、心の準備も何もあったものではない。


「……急にどうした」

「ご飯食べに行こう!」


 一瞬瞑目してから時計を見ると、時計はちょうど世間一般でいう夕食時になっていた。
 しかし、自分達が世間一般のカテゴリーに入るかといえば断じて否で、食事にはまだ早い印象の時刻でもある。
 本当ならこれくらいの時間に食べられれば万々歳なのだが、大抵仕事が片付かないのが普通だ。
 当然さぼりが原因でもないし、ついでにさぼったとしたらより酷いことになる。


「仕事はどうしたんだ?」

「終わらせたってば」


 コムイが少し焦れたように言うのは、研究室から出る前に散々尋ねられたのかもしれない。
 といっても、こちらにとっては初耳だ。
 お前がまさかそんなことをするなんて、天変地異の前触れか。
 喉まで出かかった言葉を飲み込んで、代わりに手元にある資料持ち出しの申請書を数える。
 後四枚。
 丁寧に書いたとしてもそれほど時間はかからないだろう。


「十分かそこら待つなら」


 言うや否や万年筆を滑らせたので、コムイがどんな仕草をしたのかよく分からない。
 けれど、酷く浮ついた声音ばかりははっきり聞き取れて、ほんの少し口角が上がった。


 勢いよく滑らせた、インクの色はきっと彼の物と同じだろう。





 うわあ、と小さな感嘆符が上から降ってきた。
 呆れが交ざった口調に同調しながら、バクはコムイの方を見上げた。


「どうする?」

「いや、一時間後でも同じ状況だと思うよ」


 だから、時間をずらそうったって無駄だとコムイは暗に伝えてくる。
 食堂の一角を陣取って、胸が悪くなりそうな量の食事を次々と平らげていくアレンのペースは確かに全く滞る様子がない。
 隣で無心の態でハンバーグを切り分けているラビのプレートにはまだ手を付けたばかりらしく、こんもりとポテトサラダが盛られたままだった。


「あれ、明日の天気予報ってどうでしたっけ?」


 食堂の入り口で立ち竦んでいた二人を目敏く見つけたアレンが、咀嚼をしながらラビに問いかける。
 聞き取り辛い言葉に耳を寄せて俄かに眉間に皺を寄せたが、アレンがフォークでこちらを指すのを見て合点がいった風に小さく感嘆符を上げた。


「ウォーカー、そこまで堂々と人をフォークで指すのはどうかと思うんだが?」


 ラビも昼間に同じようなことはしていたが、物には限度というものがある。
 名前を忘れてしまったが、テーブルマナー書であるガラーテオの作者はきっとこのレベルのフォークの向け方に不快感を示したのだろう。


「ああ、すみません」


 上げられたままのフォークが愛想の良い謝罪と共に下げられて、ついでのごとくミートボールに突き刺さる。


「それより、天気予報ってなんなのさ」


 珍しい、と言われたことが不服なのか、コムイが少し険のある口調で問い詰める。
 大股でアレンの席の前まで歩いていくのを追いかけて、一緒に空いている席に腰を掛けた。


「だって僕、コムイさんが食堂にちゃんとした時間にくるのなんて始めて見たんですけど」


 いつもなら食堂が込む時間を避けてサンドイッチを受け取りに来るくらいだと、アレンが続ける。
 なるほどそれは確かに珍しい。


「お前、忙しいからといって、食生活を蔑ろにして良いわけじゃないんだぞ」


 コムイを睨んで初歩的な注意をすると、コムイがオーバーアクション気味に肩を竦めた。
 しっかりとした返事は返ってこなかったけれど、守れない事柄を易々と請け負われても困るので及第点か。


「ま、その辺で。で、お二方もご飯?」


 妙な時間に食べていたわりに、ラビの皿には中々しっかりしたメニューが載っていた。
 さすがにこれほど食べる気にならないのは、性別と年齢もあるだろうが生活リズムのせいでもあるのだろう。


「一応、な」

「一応?」

「昼食が遅かった」


 コムイが頭をこちらに傾けて聞いてきたので、溜め息混じりに返事をしてやる。


「でも、三時前だったさ? 疲れてんじゃね?」


 念押しのように聞かれてしまうと、もっともらしい否定の言葉が出てこない。
 実際、人の食事風景程度で食欲が左右されている上、間食を挟んでいないのにこの食欲の微妙さというのは問題がある。


「バクちゃんも人のこと言えないじゃない」

「阿呆。私がこれほど忙しいのもここにいる間だけだ」


 喜色を隠そうともせず告げてくるコムイを忌々しく睨んで、暗に疲れを肯定する。
 疲れた、と示してしまった途端、虚脱感が襲ってくるのは正直とみるべきかそれとも単純と恥じるべきなのか。


 こつんとテーブルに硬い物が置かれた音に下がっていた視線を上げると、アレンの前に深皿が二枚増えていた。
 どうやら追加の食料らしい。


「……お前はなんという物を」


 どこからどう見てもポリッジである。
 所謂オーツ麦を粉砕して粉にした物からできた粥だが、一目見て一生お世話になりたくないと思った一品だ。
 こういっては何だが、嘔吐物にしか見えない。
 同じ米を粥にする中国出身であるコムイも口にはしないものの、少し表情が固まっている。


「美味しいですよ?」

「これね、オーストラリアの方のレシピらしいさ」


 麦は潰しただけで、バターで炒めてから牛乳と蜂蜜で煮る。
 それで止めに炒った胡桃を加えて食べるのだ、とラビが説明した。
 確かにいつか見たポリッジよりも随分麦が形を留めているようだし、甘い香りもしっかり漂ってくる。


「ちょうど二皿ありますし、食べます?」


 え、と先に声を漏らしたのはコムイだった。


「い、いやいやそんな、悪いよねえ」


 食べたくないわけではないが、アレンから食事を奪う行為に気が引ける。というより、恐ろしい。
 頷くだけで肯定すると、アレンが楽しそうに笑った。


「大丈夫ですよ、また頼みますし」

「ああ、なるほど!」


 机の上にはまだまだ沢山料理が残っているのだから、今から作ってもらっても十分間に合うだろう。
 心底ほっとしたように手を打つコムイに、さすがに失礼すぎやしないかと他人事ながらに心配する。
 それでも勧められるままにポリッジを口にすると、蜂蜜の甘さが始めに広がった。
 咀嚼している内にバターの塩分がちらりと顔を出す。


「……脂質と糖分と炭水化物で美味しくないわけがないな」


 ケーキを始めとする洋菓子類は基本的にこの三つの成分は外さないし、大体の物が美味しい。
 その理論でいくと、当然甘いポリッジは美味しいということになる。


 そうでしょうと満足そうにアレンが頷いて、追加を頼むとか何とか言って席を立った。


「サウザンアイランドドレッシングで良い?」


 ポリッジだけではとアレンについていこうとするコムイが顔だけこちらに向けて問うので、相槌で肯定する。
 実際のところ、サラダのドレッシングが何風であろうがどうでも良かったのだが、明け透けに意図を伝える理由もない。


「――なんとかなったのん?」

「何が」


 二人の背中を見送ってから、ラビが机に身を乗り出してこそこそと聞いてくる。
 一瞬本気で何を言っているのか分からなくて問い返してから、何を示唆しているか気がついて小さく溜め息を吐いた。


「ああ、その、いいです。ごめんなさい」


 嫌がらせついでにどういう基準でどうなれば何とかなったにあたるのかと聞いてやる前に、ラビが首を小さく振って色々と否定してくる。
 聞いておきながら、あっさり引き下がりすぎではなかろうか。
 ならば聞かなければいいのに、と溜め息を重ねる。


「それじゃあ何ですか、僕は鬼悪魔ですか!」


 弁解しようとしたのか開いた口は受付近くで叫んだアレンによって閉じられてしまった。
 既に注文を終えたようで、むっつりとふて腐れたアレンがテーブルにフライドポテトを派手な音と共に置く。


「そりゃあ、長々と寝食を共にした人ですよ? 情の一つや二つ湧きますって!」

「あー、マリアンか?」

「そうそう」


 サラダのボウルと鶏の煮付けを持って席に就いたコムイに耳打ちすると、微妙に硬い表情のまま頷かれる。
 まずいことを言ってしまった自覚はあるようだ。


「そのツンデレ分かりづらいさ」

「……別にデレてる気は一切ないんですが。というか、生死不明で心配したらデレとか何ですか」


 眉間に盛大に皺を寄せながらアレンが正当な主張をするのを聞きながら、数少ない対マリアン仕様のアレンを思い出した。
 常々中々辛辣だが、彼のしでかした行為を思うとしかたがないかもしれない。
 間違いなく自分でもそうするレベルだ。


「ザマーミロ! とは誰もいえないよねえ」


 ごめんごめん、という口調は軽いが、コムイが本心から気軽に謝罪しているわけではないのが分かったのかアレンが頬を緩める。


「そうですよ、僕だって神田が死んだら悔やみますもん」

「その心は?」

「戦力が減った、この役立たずめ!」


 始めから茶々を入れられることを見越していたのか、アレンが一瞬の迷いもなく叫ぶ。
 死なないという確信があるから言えることなのかもしれないが、殺しても死なないようなマリアンの生死が不明な今に限っては少し危うく思えた。


 そんなことを考えている間に、コムイが間の抜けた母音を漏らした気がした。


「お前が死んだら足手まといがなくなったって喜べるな」

「……なるほど、そういう考え方もありましたね」


 アレンの背後に現れた至極不機嫌な調子の嫌味ったらしい声に、アレンがこれまた吃驚するほど中身のない笑顔でもって応えた。
 椅子を引く音は軽いものの、その背を持つ手がいやに筋張っているのが分かる。
 視界の隅で何かがひらひら動くので正体を追ってみると、すでに席を立って退避の構えを取っているラビの手招きだった。
 もう一方にはワンプレートのハンバーグが収まっている。
 置き去りにしたのは水の入ったコップだけだ。


 なるほど、それ故のワンプレートだったのか。


 サラダと煮付けを手にコムイが立ち上がったので、ポリッジを二皿手にとって避難する。
 ラビが再度陣取った部屋の隅のテーブルに移動したのと、誰かが座っていたはずの椅子が吹っ飛ばされるのはほぼ同時だった。





「喧嘩するほど仲が良いって言うけどねえ」

「ああも被害が及ぶとな……」


 部屋の隅で平然と食事を進めるラビやその他一同を見るに、喧嘩自体は日常的に起きていることなのだろう。
 だから被害に対する認識が鈍っていて、一切届けを出さないのだと思う。


「まあ、あれで仕事はちゃんとしてるから下手に口出しできないんだよね」


 妙に介入してバランスが崩れては困る、とコムイが悩ましげに溜め息を吐き出す。
 確かに、あの微妙でありながらもちゃんと組み手等々も共にしている関係なのだから、こちらからどうこう言うのも何かもしれない。


「食堂で暴れるなくらい言っても良いだろう」

「いやさ、以前はそんなことなかったみたいなんだよね。もしかしたら、クロス元帥の件でぴりぴりしてるのかも」


 言われてみれば、アレンが食事の場で暴れるというのは珍しいのではないだろうか。
 あのゴーレムの動画で、記憶が正しければ神聖な食堂で喧嘩をするはずがない、と宣言していたはずだ。
 そのアレンが自らの決まりを悠々と破っているとくれば、精神状況が平静と違うのは考えるまでもない。


「面倒だな」

「そうなんだよ! ガラスの十代めんどくさい!」


 多少ヒステリックに吐露した愚痴が、個室周辺の廊下に響き渡って思わず服の裾を引いて制した。
 少し尾を引いた反響が静まるまで足を止めて、静寂が返ってくるのを二人で待つ。
 この時間に寝ている者はそういないだろうが、いないともいい切れない。
 夜勤のために仮眠している者がいないわけではないはずだ。
 防音くらいは施されているだろうが、どれだけ軽減されるかはさっぱり分からない。
 こんな訳の分からない叫びに起こされては堪らないだろう。


「ごめんね?」

「私に謝ってどうする」


 そうなんだけどさ、ともごもご言うコムイの服の裾を掴んだままだった手を放すと、見計らったように彼が歩き出した。
 黙らせる以上の意図がなかったとしても、握っていたことに気づかれていたのだと思うと胃に熱源が落ち込んだ。
 顔に出てしまっていないだろうか。


「バクちゃんの部屋ってこの辺だっけ」

「ん、ああ、そうだな」


 声は平常通りだった。大丈夫。
 特別なことは何にもなく、何年も繰り返してきたことの一つにしか過ぎない、そう言い聞かせる。


「それじゃあ、僕も今日は寝ちゃうよ。お休み」


 こんな時間に眠れることなどそうないのだろう、コムイが少々興奮気味に笑った。
 ああ、もういっそのことそればかりに囚われて何も見えていなければ楽なのだけれど。


「ちゃんと自分で起きるんだぞ」

「……善処するよ」


 天井付近を視線がさ迷ってから、少々自信なさそうな素振りでコムイが頷く。
 そもそも普段から睡眠時間が足りなすぎるせいで起きられないのだから、十分眠れたら起きられるように思えるのだが確信がないらしい。


 それじゃあ、と手を振られてから、どうやって部屋まで帰ってきたのかいまいち覚えていない。
 当然挨拶だってしただろうに、その言葉が思い出せなかった。
 ただ、戸を閉める硬くて軽い音にやっと意識が引き戻された。
 隠す必要のなくなった熱は全身に行き渡っているらしく、真鍮のドアノブが手に心地良い。


 いつも通りだったではないか、と己に言い聞かせる。
 下らないような、それでいて重要かもしれない話をして、それで楽しかった。
 そう、幸せだった。
 ひたりと扉に背を付けて、その温度差に身震いする。
 そういえば、あのときの壁も冷たかった。


 違う。
 いつもと同じであるはずがない。
 知ってしまったのだ。
 抱き寄せられる感覚に、耳元を滑る声を。
 その熱を。
 忘れられるはずがないと気づいてしまった。
 浅ましくも、期待してしまう。

 答えを探したいのだとコムイは言った。
 早くその日が来れば良い。
 そうすれば、後はこの日々を日常にすればいいだけのことなのに。