ふらふらと廊下を歩いていたら、思いもよらない人物に捕まってしまったのがほんの少し前の話。
「リーバー君に捕まるのなら分かるんだけどなあ」
「あながち間違いではありません。副班長にいくつか当たりをつけて貰いましたから」
なるほどそれなら分からなくもない。
こちらが忙しくて禄に出回れないのに対して、彼女は秘書業で奔走しているのだから地理の理解も歴然の差があるだろう。
加えて、潜伏地の傾向を心得ているリーバーの口添えがあるのだから。
そう考えると別段不思議なことでもない気がしてくる。
「お疲れなら、休みが取りやすいように計らいますがいかがしますか?」
「え、いや、良いよ。ええと、このサボってるなって感じが好きだから」
予想外の提案にややオーバーアクションで手を振りつつ、我ながら酷い言い分を口にする。
半ば本気でもあり、冗談でもある内容にフェイが眉を潜めた。
「過ぎた言かも知れませんが、部下に対する気遣いならいらぬものだと思いますわ」
図星過ぎる発言に今度はこっちが表情を苦くしかけて、どうにか取り繕った。
彼女の意図が分かるから、どう言い返して良いのか分からない。
「気の置けない上司の下でなければうまく回らない職場っていうのもあると僕は思ってる」
「確かに科学班は意見交換が最重要と把握しています。しかし、それで上が動けなくなっては本も子もありません」
さらさらと反論されてから、ほんの少し間があった。
けれどそれはこちらが何か口にすることすらできないような時間で、すぐさま辛辣な言葉が重ねられる。
「あなたへの信頼とはその程度で崩れるものなのですか?」
「――それは僕が懸念を捨て切れないだけだ」
ただ単に出世を重ねていき、順当に室長になっていたら簡単に取れた行動だろう。
むしろ当然といっていい判断だ。
「僕は型を破ることで信頼を重ねてきた」
アジア支部にいた頃でも、出せる意見は人の名を借りてでも出そうとした。
だからこそ、バクを筆頭とする名も実もある人物に認められ、あの若さで室長の座にありついたといっていい。
本部にきてからは、非人道と言わざるを得ない研究の棄却をしたり、本部の人間同士の交流を深める場を増やしたりした。
本部を誰にでも過ごしやすいホームにすることで、元来からある破天荒なキャラクターを示して認めさせていった。
もう、そうそうのことでは青二才とは呼ばれない。
「今更、多少のことをしても揺るがないのは分かってる。でももしかしたら、と思うとどうにも怖くてね」
見逃してほしいと手を合わせると、フェイが深々と溜め息を吐く。
「……今、これ以上ここを動揺させるわけにはいきませんものね」
渋々吐き出された言葉にそっと安堵の息を漏らして、どうせ向かうことになるだろう執務室に足を向けたときだった。
「そういえば動揺というと、どうなさるつもりです?」
相当妙な雰囲気になっていますが、と背後からわずかに浮ついた声音が飛んできた。
さっきから手厳しい言葉を浴びせかけられていたはずなのに、軽い口調のそれが一番刺さったのはどういうことだろう。
「妙な、というと」
「わざわざ詳細を言わせるおつもりですか?」
まさかそんな趣味の悪いことはできようがないので、小さく首を振って否定する。
ああしかし、そんなに分かりやすいのかと思うとほのかに絶望感を感じてしまう。
針の筵とでも言えば良いのか。
「あなたは恋をなさったことがありますか?」
「多分、普通に生きてきた頃には人並みに」
きっと、このままいけば近い内に家同士が婚姻を決めるのではないかという人物もいたにはいた。
けれど、アクマの襲撃があってから全てうやむやになって、今ではあの少女が生きているかすらも分からない。
とにもかくにもあの日からがむしゃらに生きてきて、もしかしたらあの日々の気持ちを俄には理解できないかもしれない。
いや、理解できていたらこんなに迷うことはきっとない。
「私はありません。生まれる前から教会に組み込まれ、長らく秘書を勤めてきました。教会内で神に身を捧げている女は少ないものですので、引く手は数多ではありましたが」
単純明快な回答と、細かな説明がとうとうとなされた。
だからといって、説明が完璧なわけではない。
恋をしないことと相手が多いことは一致する答えではない。
「……相手も聖職者が多いですから」
黙り込んで続きを促すと、渋々と結論をフェイが導きだした。
無粋なことをしてしまった気がするが、これ以上触れてしまうのは余計に酷いように思える。
「なるほど。どこにいても人は人ってことかな」
「私はギャップを良しとする趣向はありませんから、そういうのは正直うんざりです」
「特権階級に就くなら、それなりの制約は甘んじて受けるべきだね」
ミルトンは悪魔の首領にすら責任と危険を課し、特権のみを行使する輩を非難した。
あれから二百年余り過ぎるというのに何も変わっていないどころか、教会の者が自らを律せられないとは嘆かわしい。
「それがあなたの答えですか?」
「え、いや、それは違うな。確かに黒の教団はヴァチカンに所属しているけど、聖職とは言い難いと思う。それにこう言ってしまうとなんだけど、全世界から集められた有能な頭脳を一世代だけに留めて継承しないなんて正気とは思えない」
枷は付けられて当然とは思うが、ここでは妻帯の不可はナンセンスでしかありえない。
その理論だけで考えれば、自分とバクの組み合わせはかなり好ましいはずなのだ。
将来を有望される子供が生まれる確率は高いのは目に見えている。
リーダーとしての振舞い方の差異を子に見せられれば、その子は可能性を知ることができるだろう。
「僕はずっとそういう結婚をするんだと思ってた」
次世代のために。ひいては過去に連なる人々のために。
「……でも、バクちゃんが考えてるのはそうじゃない」
そうですね、と落ち着き払った相槌が返ってくる。
どうしてそれ程親しくもない部下にこんな話をしているのかと思わないでもないが、親しい人物に話していたら正気ではいられないかもしれないとも思う。
「結婚と恋愛は別物だけど、この状態でイコールにならないのは酷すぎる。でも、好きってなんだろうね。僕はリナリーが大切で周りからシスコンシスコン言われてるけど、かといって肉欲に結び付く感情じゃない。バクちゃんのことは一番の友人だと思うし、これも形容するなら好きだよね。でも、友人のままじゃあ恋人にはならない。恋人は自然接触が深まるけど、じゃあ恋愛感情は肉欲がなきゃいけないのかって話になる」
うだうだと続けて、ぴたりと自分の口が止まる。
好きだから触れたいという言葉はよくある陳腐な言葉で、恋愛における極自然な欲求なのだという。
けれど、あのときの衝動が恋愛感情に起因するとは到底思えなかった。
「殿方の恋情はあまり存じませんが、決定的な男女差というと性交渉でしょうね」
あんまりにもあけすけな物言いのせいで、せいこうしょう、とおうむ返ししてしまう。
「あなた方は愛も情もなく女を抱けるのではないですか?」
「……なるほど」
男は体の作り上、性交渉とまではいかなくともそれなりの行為をしなければならない。
それが想像や紙上が相手ではなく、生身だったらより良いと思うのは当然のこと。
実際実行に移れるかどうかという話は、巷に溢れる娼館が証明している。
生物学的に言及するなら、男は自らの遺伝子を一つでも多く撒き散らさねばならず、女はそれが自らの欠点を補い得る物か見定めなければならない。
それ故に、男女の性交渉観に違いが出るのだろう。
当然これは一因でしかないのだけれど。
「じゃあどうしろって言うんだい。考えても駄目、欲求をそのまま真に受けちゃ駄目じゃどうしようもないよ」
溜め息を吐きながら降参のポーズを取ると、こちらを上回るこれ見よがしな溜め息をフェイが吐き出した。
「……これだから頭でっかちは」
開口一番で罵られて、一瞬眉を潜める。
最先端と称しても過言ではないだろう科学の研究を取り仕切る人物を捕まえて、頭でっかちとは何事か。
「そもそも感情を理論でどうこうしようというのが間違いです。まともでないことをまともな方法で解決できるとお思いですか?」
なるほど、確かにその通り。そう頷くしかなかった。