時計を確認したら、二時半を回っていた。
朝食を取ったのも六時台だったから、座り仕事とはいえ空腹は否めない。
持って帰りたいと思えばきりがない資料に一旦きりをつけて、長々と座っていた椅子から離れる。
箱舟で長距離移動が簡単になったとはいえ、写本の手続きやら何やらを考えれば際限なく持ち帰るわけにはいかないのだ。
「おろ、今からお昼?」
昼の時間を完璧に外した具合で空いている食堂で、選択肢があり過ぎる席探しをしているとラビに声をかけられた。
珍しく一人なようだが、こちらと同じように盆を持っている。
「ああ、仕事に集中し過ぎた。それにしても、そっちも随分遅いな」
訓練といったって、空っ腹を抱えてやるものではないだろう。
基本的に外部での仕事しかないエクソシストの方ではなく、ブックマンとしての用事が長引いたのかもしれない。
「いや、それが……えーと」
これ見よがしに頬を掻かれ、もっとプライベートに近い何かが原因だと示される。
ここで掃除をしていたと告白されたのは、手短な席に座ってからだった。
「そんな、何を言ってるか分かんないって顔しないで下さい」
「では、状況説明の一つしてくれるんだろうな?」
トマトとバジルの冷製パスタを搦め捕りながら、ラビが湿っぽく言った。
鶏のドリアの縁の焦げをスプーンで削いで、口に運ぶまでにラビを促す。
「ちょっとアレンとはしゃいでまして、紆余曲折の末に神田の蕎麦が引っ繰り返って」
「食堂で何をしているんだ、お前らは」
「全くで……」
ぐるぐるとフォークを回すにしたがって大きくなっていくパスタの玉に危惧を抱いたが、ラビが一気に口に含んで悠々と咀嚼した。
荒っぽい食事というべきか、子供らしいというべきか微妙なところだ。
少なくとも自分にはとてもじゃないができそうにない。
「アレンは逃げちゃったけど、俺は捕まってまあ、色々あった後片付けしてたらこんな時間だったさ」
「神田はどうした?」
「アレン探しに行った」
もしゃもしゃと効果音がつきそうな勢いで食べながら、ラビがくぐもった声で答える。
真新しい団服に油染みが付かないか心配になってきた。
「あの様子じゃ昼飯完璧に食い逃しただろうな」
「彼がか?」
アレンが一食でも抜くなんてことはそうそうありえないし、その直後の食事がどんな状況になるか予想もつかない。
往来で神田と殴り合うよりも嫌な光景が繰り広げられるような気がして、夕食も時間をずらそうかと検討した。
「夜はこのテーブル一つ占拠する勢いになると思うさ」
うわ、と漏らしながらこってりとしたホワイトクリームを口に含めば、途端に胸焼けを感じて溜め息を吐き出す。
空腹でないはずがないのに、ラビの見ていて意味気持ちが良い食べ方に加えて来るべき惨状のせいでこちらまで食べたような気になってしまったようだ。
かといって、食べなければすぐに腹が空くだろうし、今更あっさりした物と交換するのも宜しくない。
「食わねえの?」
「ああ、いや……」
鶏の皮をスプーンでつついていると、ラビがフォークを軽く向けてくる。
こんな場所でテーブルマナー云々は言うつもりはないが、代わる言葉が浮かばず思わず濁した。
「あ、もしかしてもしかする?」
もしかする、と訳が分からず聞き返すと、ラビがまたもフォークを使って招き寄せてくる。
「ゴーレム見ちゃった、とか」
素直に身を乗り出せば、もう何日も前の出来事を蒸し返された。
それでも、もう何日も前の出来事だというのに、鮮明でありながらも途切れ途切れに脳裏に浮かぶ。
「ああ、見たんだ……」
「……まあな」
テーブルに片肘を突いて、スプーンを持つ方の手首に額を乗せることで熱を持ってしまっただろう頬を隠す。
目の前に座るラビに対しては何の意味もないだろうが、周囲からは多少分かりにくくなるだろう。
「一応言っておくが、それで物思いに耽っていたわけではないからな。ただの胸焼けだ」
はいはい、と気のない返事からして、十中八九信じられてはいないだろう。
ラビが納得するまで経緯をこんこんと説明したくなる。
「まー、支部長もお疲れでしょうし」
「始めから分かってるなら、それなりの態度を取らんか」
へらへらと笑いながらラビが指摘してきて、一気に浮ついた気持ちが冷めるのが分かった。
そういう態度を取られるくらい、自分の状況が常軌を逸しているのだ。
これは大変宜しくない。
アジア支部に帰るまでには何とかしなくては。
「でも、実際どうするんさ? このくらいの齢で交際っていうのがまずありえんのだけど」
急に真面目に話し出したラビに気圧されて、ただ頷くだけに止める。
「普通に考えたらこのまますぐに籍入れるとして、子供は止めとくって感じになるんだろうけど、産まなきゃ圧力かかりそうじゃね?」
「ああ、チャン家の人間なら子孫は残すべきなんだろうが、圧力自体はそれ程ないように思えるな」
「なんで?」
鶏を咀嚼して飲み込んだついでに答えた内容が不可解だったらしく、ラビが首を傾ける。
ある意味当然の理由なのだが、家名に固執するあまり思考が淀んでいるらしい。
「このご時世にこういう職に就いた女が平々凡々に結婚して子供がつくれると思うか?」
「ああ!」
合点が行ったらしく、ずっと押さえていた声がワントーン上がる。
彼もそれに気づいたらしく、一瞬肩を竦めた。
「時折遠縁の者が諦めきれずに口出してくることもあるが、全て真っ向から切り捨ててやったさ」
そのたびに狂ってしまう予定に奔走されられたことを思い出して、思わず溜め息を吐いて水を煽る。
「じゃあ、コムイじゃ釣り合わないとか言われる心配はないってことか」
「多分な。文句を垂れる者がいたとしても少数だろう」
コムイの名が出てから、相手の返事も聞いていないのに何を予測しているのかと馬鹿馬鹿しくなってきた。
重ねて溜め息を押し出すと、ラビが小さく笑う。
何が面白いのかとじと目で睨んでも、その容貌は全く変化しなかった。
「結婚は恋愛感情だけでするもんじゃないって言うけど、俺もそう思うさ」
そういうものより大切なものが一杯あるって聞いたことがある。
どうやら俺はまだまだ子供だから、全然分からないみたいだけれど、と彼はまた笑った。
「奇遇だな、私もそうらしい」
「駄目駄目さね、二十九歳」
「全くだ」
無邪気に子供の顔で笑うラビに苦笑しながら返して、それでも子供の思考になりきれなかった自らを恨んだ。
冷静な大人の部分が自分の言ったことを思い出せ、と頭の内側で反響し続ける。
負担になりたくないと言ったのはどこの誰だったか、と。
「……お前はリナリーとアレンのどちらが死んだらより辛い?」
ぴたりとラビの表情が固まったが、すぐに解ける。
しかし、再度食事の手が進むことはなかった。
「んー、趣味の悪い質問さね。でも、そういうのってそのときにならないと分からないような気もするし、いざなったときには較べようもなくね?」
「じゃあ、私とリナリーだったら?」
暗に答えられないと言ったラビに質問を重ねると、今度こそ表情を歪ませて彼が自身の前髪を掴んだ。
「……そういうことか。まあ、コムイもいい加減抱え込み過ぎだし、今更って気もするけど」
「それを自分に置き換えてなお言えるのか?」
「――俺は無理」
それなりに長い沈黙の後、根負けしたらしくラビが降参のポーズを取る。
両手を上げるときに皿に置いたフォークが斜めになって、慌ててその手を下げて留めた。
「でも、その話ってコムイだけじゃなくて、支部長にも言えることなんじゃね?」
手持ち無沙汰なのか間を稼ぐつもりなのか、緩々とフォークを回しながら問いかけてくる。
ああ分かっていないな、とからからと笑った。
ブックマンの継承者を名乗り、世の中を知り尽くさんとするこの少年はやはりまだ少年であって子供なのだ。
それでいい。
この子供はまだ、分かったような顔をしているだけでいい。
「馬鹿め、それこそ今更だ」