久々にやってきた本部でうっかり徹夜して最新資料を読み漁ってしまった。
 徹夜したと認識した途端、猛烈に眠気が襲ってくる体が憎らしい。
 軽く肩を回しながら、シャワーでも浴びて目を覚まそうかと思案していると慌ただしい足音が聞こえてきた。
 この走り方からして多少なりとも訓練を積んできた者ではありえないと踏んで、曲がり角でぶつからないように進行速度を落として角の外角に寄る。

 先頭をきって角を曲がってきたのは黒が基調のワンピースを着た少女だった。


「たす、けて、助けて助けて!」


 こちらがよろめきそうな勢いで飛び込んできた少女をどうにか受け止めて、彼女の悲鳴を反芻する。
 十にも満たないだろう少女の訴えに言いようもなく胸を打たれて、胸元に押し付けられた頭をゆっくりと撫でた。

 どうして、こんな子供が。


「リナリー・リー!」


 漸く追いついたらしい後続の、少し薄汚れた白衣を見て全てを悟った。
 この子はイノセンス適応者だ。少なくともそれに関わる子供であるには間違いない。


「嫌……! 帰して……」


 もし彼女がエクソシストであるのなら、そんな要望は許されない。
 彼女は本部を守り、アクマやノア達と戦っていける数少ない戦力なのだ。

 けれど、どうすれば言えるのだろう。
 この震える幼子に、君は戦わねばならないなどと。


「すみません! 駄目だろう、支部の方を困らせては」


 背後からそっと抱き上げられた瞬間、少女の全身が堅く強ばった。
 それでも助けてと掠れた声で乞われて、思わず耳を塞ぎたくなる。
 少女を抱き上げていない方がお辞儀をしてきても、まともに返礼できなかった。
 本部の室長の椅子にはこんなことも付随し得るのだと、理解していたつもりだったのに。


「……リー。リナリー・リー」


 泣き声も足音も聞こえなくなってから、記憶に刻み付けるように口にする。
 よくある家名であるが、けれど引っ掛かる名前だった。
 最後にほとんど空気の擦れるような声で、彼女は兄さんと泣いたのだ。









 コムイ・リーは奇怪な男である。
 二、三年前にアジア支部の研究室に入ってきたと思えばめきめきと頭角を表し、今では自分と肩を並べるどころか、下手をすればこちらよりも上と表されている。
 出世欲はあるにはあるらしいが、それに付随する権力や利潤に興味は全くといって良いほどないらしい。
 そんな男だ。

 今更ながらに研究員名簿を見ながらあのときのことと先程のことを思い返す。
 ルベリエがきたと思えば、一定期間自分とコムイを調査し、どちらを本部室長に据えるかと宣った。
 そのときに、彼の瞳に僅かに浮かんだ興奮の色をどうすれば忘れられようか。


「バクちゃん!」


 ノックもせずにコムイが飛び込んできたが、遅かれ早かれ来るだろうと予測していたので驚きはしない。
 そうして、彼が何と言うかも分かっている。


「どうして室長の座を辞退したかだろう? 簡単なことだ」


 コムイの名簿の家族構成にリナリー・リーの文字が踊るのが視界に入った。
 あのときの叫びが生々しく脳裏に甦る。

 ああ、助けてやるとも。


「第一に、私はここの創設者の一族だから形式上一旦支部長をしておいた方がいいだろう。そして第二に、後発となるべく人材がまだ育っていない内に本部に行ってしまうと、私達の一族からすれば痛手となる」


 二本の指を説明するごとに立てていき、最後にその手を広げて本を畳む。


「つまり、こちらからして今室長になったとしても、そう利益がないわけだ。けれど君には十分にあるだろう?」


 それから初めて突っ立っているコムイを見上げれば、彼は呆然とした顔でこちらと名簿帳を交互に見ていた。
 何度か視線を変えた後やっと理解がいったらしく、コムイが口元を軽く押さえる。


「バクちゃん――」


「私はあの子の頼みを聞いただけだ。そんなこと言っている暇があればさっさと荷造りしてこい。後」

 何かを伝えてもらおうと思ったのに、何も言葉がでてこなかった。
 助けてやるとは言ったものの、もう手遅れになっていてもおかしくはないのだ。
 もう今更、何もかも遅すぎるのではないかと先程まで蟠っていた不安が口を塞いだ。


「……凄く格好良かったって伝えておくね!」


「なっ!」


 言い返えそうにもいつの間に下がっていたのか、既にコムイは満面の笑みで扉の向こうに消えるところだった。
 この後追いかけたとしても支部内を走り回る羽目に陥って、笑い者になるだけだろう。
 今はここに留まるのが賢明だ。
 しかし、それで気持ちが落ち着くはずもなく、ごまかすようにばねの入った背もたれに体重を掛ける。


「あいつは……こういう時くらい真面目なことが言えないのか!」


 びよんびよんと撥ねる背もたれに身を預けながら、一人でお茶らけた同僚を罵る。
 しかしそれでも、そんな下らない言葉があの少女の頬を緩ませられればと願わずにはいられなかった。