喉を通る呼気が冷たく掠れている。
壁に張り付いたプラスチックの文字はここが三十四階であることを示していた。
ヒルズ、高い高すぎる。
直哉と二階堂は最上階への到達が余程楽しみらしく、ペースも考えずにどんどん先へ行ってしまった。
二階堂なら速度を落とさずに昇り切れるかもしれないが、本職がプログラマーである直哉にそれ程の持久力があるかは甚だ疑問だ。
いや、直哉を最早ただの天才プログラマーとして考えるのは間違っている。
恐らく彼は今の自分と同じか、それ以上に人間ではないのだ。
天使の言葉が真実ならば、彼は恐らく二千年に等しい記憶を有しているはずなのだから。
「――っ!」
そんな考えを巡らしていると、盛大に階段を踏み外して強かに臑を打った。
派手に階段落ちしなかっただけ幸いだったが、一応魔王に近い人間が階段から足を滑らせて良いのだろうか。
うず高いビルを自力で上っている時点で、どこからがアウトかさっぱり分からないけれど。
「宏太郎!」
「伏見君大丈夫?」
少し前にいた篤郎が階段を降りてきて、真横にいたマリ先生がズボンの裾に手を伸ばす。
「いや、良いですって! 篤郎ももったいないだろ」
「は、何が?」
「降りてきたら余分に上がんなきゃいかないし」
自分で裾を引っ張り上げて出血がないのを確認しながら、無駄に体力を使うことはないと諭した。
臑は近々内出血になりそうだったが、こういう傷にもディアは効くのだろうか。
とりあえず掛けておこうとCOMPを探る。
「はあああ!?」
縦に茫洋とした空間に篤郎の裏声の交じる呆れが響いて、もしかしたら直哉達にも届いたかもしれない。
マリ先生も吃驚したようで、自分と篤郎を瞬きしながら交互に見た。
「お前、実は馬鹿だったりするだろ……」
一つ上の段でしゃがみ込んで、溜め息交じりでなされた指摘に乾いた笑い声で返す。
本当に自分が馬鹿なのかそうでないのか、よく分からなくなるときがある。
例えば今、自分の選択が正しいのか、とか。
「ねえ、篤郎。俺がまだ人間のために魔王になると思ってる?」
ははは、と笑った声のトーンと同じくらいかろがろした調子で篤郎に問いかける。
COMPを探すために下げていた視線を上げると、しゃがんでいて少し高い所に位置していた篤郎の目がしっかりとこちらを射貫いていた。
視線を合わせ返した途端、その瞳が揺らいで一度瞼の奥に隠される。
「当然だろ」
篤郎は笑ったり、頭を撫でたりするようなことはしてくれない。
代わりに、瞼が上げられてからはどれだけ篤郎を見返しても瞳は逃げようとはしなかった。
視線を外す前にそっと瞼を閉じて、息を吐き出す。
篤郎は信じてくれている。信じようとしてくれている。
そのためらいを捨てないで。
それこそが僕の人間を繋ぎ止めるすべて。