待ち人来る



 台所の脇には午前中に買ってきた大学芋が一袋。
 濃い目にいれてもさっぱりとした後味が特徴の少々高いお茶の葉も、2、3日前に銀座まで足を伸ばして買ってきた。

 探偵社内の掃除は昨日の内に済ませてしまって、最近見ないくらいの整理整頓っぷりだ。
 自宅だって似たようなもので、自分の浮かれ具合に呆れてしまう。
 これじゃあまるで、出稼ぎの旦那の帰りを聞いた若奥さんじゃないか。
 口にはしないけれど、実は自分が思うよりも鳴海昌平という男は馬鹿だったんじゃないかと思わずにはいられない。

 でも、それでも。

 かさり、と音を立てて三つ折りになった手紙を開く。
 簡潔な手紙には件の事件の報告と、向こうでの仕事が終わってこちらに帰ってくると記してあった。
 今日の二時二十分着の列車で帰ってくるとまで書き付けてあった。
 きっと彼は探偵社までの道程どころか、筑土町全体の地理を完璧に把握しているだろうけれど、迎えに行かないでか。

 一人でいるのには慣れていたはずだったけれど、あの子が来てから変わってしまったらしい。
 始めの頃よりも随分口数の増えた少年の周りは案外常に賑やかだった。
 朝に寝ぼけ眼でおはようと言える、いわば家族のような人がいる生活を自分は慈しんでしまったのだ。

 そうなった現状に後悔はしていない。
 きっと彼に出会わなければ、そんなことに気づきもしないまま自分は死んでしまっていたことだろう。
 それが悲しいことだと、それこそ気づきもせずに。

 彼の人間性に発見するたびに、表情を緩めたり笑ったりするたびに細い体を見送るのが苦しくなった。
 情けないことに自分にできることといえば、家で彼の無事を祈るくらい。
 時には待つのが堪えられずに、馬鹿みたいに酒を飲んだこともあった。
 酔って家に帰ったとき、起きていた彼に不安をぶつけた日のことを今でも覚えている。
 次の日先手必勝で謝って、却って感謝を述べられた。
 あなたが家にいると思うと、頑張って帰ろうと思えます。
 無事に帰って、何もなかったように夕飯が食べられるのがとても嬉しいのです。
 帰る場所が、帰りたいと思う所があることがこんなにも幸せだと初めて知りました。
 彼は会った頃では想像も付かないような穏やかな笑みを湛えて、あなたに会えて良かったと続けた。

 全く嬉しいのはこっちの方だと心底思った。
 自分みたいな人間が誰かの居所になれるだなんて、一人きりになったあの日から考えたことすらなかった。
 それでも彼は自分のことを認めてくれていて、心配までしてくれた。

 ひとと生きるということを思い出したあの日のこと。
 ライドウ、ライドウ。お前は人から与えられてばかり、と思っているかもしれないけれど。

 朝に念のため巻き直しておいた時計が低く鳴って、電車の時間の二十分前を告げた。
 上着を着たり帽子を被ったり、念のため窓と扉の鍵を締めたりしている内に二、三分は掛かるだろう。
 普通に歩けば駅までは十分程度。
 いつかみたいに彼を待たせて、可愛らしくありながら小憎らしいお目付役に厭味を言われるつもりはない。

 予定通りに窓を締めてから上着と帽子を身につけ、探偵社の扉を締める。
 探偵社の玄関から続く階段を降りて、時たま意味ありげなアイコンタクトを取ってくる老婦人に会釈した。
 金王屋の前で騒いでいる子供を横目で見ながら角を曲がって、大通りまで真っすぐ進む。
 建物の間に挟まれて薄暗い所から急に表に出るとなると、どうしたって眩しく感じられて目を細める。


「……ライドウ?」


 甘味屋から出て来たのは、最近ご無沙汰していたが見覚えのある少年の姿で。
 手元にはどうやら自分も買った大学芋の袋が携えられていた。
 予定が変わって遅れるならともかく、早く着くなんて騙し討ちじゃないか。


「ライドウ、大学芋買っちゃったのか!」


「鳴海さん?」


 人しか歩いていない大通りを横断して、やはり甘い匂いのする袋を確認する。


「もしかして、鳴海さんも買いましたか」


 頷けばライドウの視線が袋に落ちる。
 その視線に誘われて俯いた先に、美味しそうな匂いと黒い毛並みがあった。


「なんだゴウト、元に戻ったんだな」


「やはり、猫なのが一番楽なのだそうですよ。夜目も利く上、どこにいてもさほど怪しまれませんし」


 なるほどと頷いてから、しなやかな毛皮に触れようと体を屈める。
 けれど、ゴウトに触れる前に手を躱して、ライドウの向こう側に行ってしまった。
 以前なら引っ掻き傷の一つもできていたので、進歩ではあるだろう。

 顔を上げると、目を細めてゴウトを見るライドウがいて。


「なあ、ライドウ」


 しゃがんだままでは何なので、膝に手を沿えて立ち上がる。
 自分よりも少し位置の低い顔を上げて、ライドウは真っ直ぐに視線を合わせてきた。


「おかえり」


 少々順番がおかしくなってしまったけれど、と声には出さずに付け加える。


「はい、ただ今帰りました、鳴海さん」


 ライドウは丁寧に顔を下げて、やはり初めて駅で会ったときの仏頂面が信じられないくらい穏やかに笑った。