始まりのあの日



「ああ、ゴウト惜しかった。後二十分早く来てたらなあ」


 午前六時半、日が昇ってまだ少ししか経たない頃。
 日が昇ってというよりも薄明るくなっているという方が正しいかもしれない、そんな時間。
 ゴウトは嫌に浮かれた声に迎えられた。
 いつもならぐうたらの鳴海はまだ布団の中で微睡んでいるはずなのに、何故か既に探偵社の椅子に腰掛けていた。
 穏やかな一日の始まりとしてはあまり似つかわしくない。


「孝昭はどうした?」


 いくらか前に猫の器を失って、烏に姿を変えて気づいたことがある。
 猫の体は便利だった。
 人よりも身体能力に優れ、多少不自然な場にいても必要以上に怪しまれることがない。
 何よりも夜目が利いた。
 鳥類はその点厄介だ。
 全く見えないというわけではないが、その他の動物の比ではない。


 つまり、日が沈んでからは葛葉ライドウのお目付役を真当に果たせなくなる。


「六時すぎに出てったよ。見捨てられちゃったか?」


 鳴海の揶揄する物言いに、嘴で手の甲でもつついてやりたい衝動に駆られる。


「用件は?」


 機嫌の良い内に事情だけは聞き出しておきたいので、衝動は抑えて短く問うた。


「里帰り」


 鳴海は言ってから、孝昭が入れたらしいコーヒーを一気に飲み干した。
 顎を上げた具合で、こちらの様子は見えなかったと思いたい。
 恐らく、動揺してしまったから。


「……そうか」


 ついに、と思った。
 けれど、わざわざこんな寒い日に。
 命日には間違いないだろうが、もう少し暖かくなってからでもよかっただろうに。
 ただ、祥月命日に合わせたくないのは分からなくもなかったが。


「ライドウの家って正直想像つかないんだけど、やっぱり葛葉の血縁者なんだよな?」


 葛葉とは直接関係がない鳴海が、いるはずのない孝昭の気配を気にしてか憚るようにに言った。
 よもや後ろ暗い事情があると思ってもいないようで、口調はただ軽々しい。
 こそりと机から身を乗り出す仕草もただのポーズにしかすぎず、すぐに上体を戻して机に肘をついた。
 コーヒーカップが彼の手で踊っている。


「人づてだが、樋乃の一族で数代前に力のある者が現れて葛葉に協力したらしい。やはり樋乃の中では異端とみなされていたようでな、向こうでは記録すら残っていないとか」


「……じゃあなんだ、樋乃は全く事情が分かってないのか?」 


 空のコーヒーカップを玩んでいた手が止まり、鳴海が探るような気配を見せる。
 だが、それも一瞬だけで、呆れた、と口走る口調はいつもの者だった。


 鳴海もただの馬鹿ではない。
 たとえ今の台詞が軽い語調であったとしても、心の内では大量の仮説を立てているに違いない。
 半端な情報のみで確信に至ることの危うさを知らないわけではないだろうから、どれが正しいとは決めないだろう。


「そうだ。ただ丁度良い時に誘いがあったから、厭わしい子供を手放した。その程度の感覚だろうな」


 鳴海に事実を隠しながら、彼は一人で出掛けた。
 一人で参りたい、という思いもあっただろうが、彼なりの依頼であるように思えたのだ。
 わざわざ伝えるのも気が引けるので、代わりに話しておいてくれと。


 ただの深読みの可能性も多いにあったが、どちらにせよ憂さ晴らしが必要だった。




 早朝に出たというのに、既に日は高く上がっていた。
 汽車に追いつく程の翼をゴウトは持ち合わせてはいないだろうし、目的はとうに鳴海から聞き出しているに決まっている。
 鳴海には里帰りとしか話していなかったが、意図するところに気づくはずだ。
 思惑が通じていれば、ゴウトは後を追おうとは微塵も思いはしないだろう。


 けれど心配になってしまって、空を窺う。
 空は予想通り鳥はおろか雲一つない、薄い冬の青をしていた。


 こんな風に空を見上げるのも久しぶりだった。
 閑散とした畑の間に申し分程度にある道には人影はなく、村はひっそりと籠もっている。
 いつもよりも厚めに着込んで来たというのに、それでもまだ寒い。
 どれだけ前に降ったかも分からない雪がまだそこここに残っているのを見て、積雪した当日にこなくて良かったと心底思った。
 ここの降雪は風情など微塵もなく、ひたすらに生命を削っていく容赦のないものだった。


 幼い頃の霞みかけた記憶となんら変わりない故郷。
 全てが変わって、忘れ去られていれば良かったのに。


 人影はない。
 それがありがたい。
 早く用件を済ませてしまおうと自然、足取りが速まった。


 十分もしない内に墓地に着いた。
 そうそう近づいたこともなかったので、規模の覚えはなかった。
 けれど、そう驚く程のものではなく、記憶を辿って家の墓所探すことができそうだった。
 母の墓が別の場所にあればお手上げだが、その可能性も無視できない。


 墓石の文字に目を通しながら、その家の子供やその親を思い浮かべる。
 いくつか覚えのある名が見つかって、息を詰めた。
 自分が思う程、何も変わっていないわけではないのだろう。
 多分。


「誰だね、こんな所でうろついて」


 誰か、恐らく墓守辺りが近づいてきていたのは分かっていた。
 それでも、今気づいた風を装って振り向く。


「あの、母を参りに来たのですが、どうも記憶があやふやで」


「じゃああんた、ここを離れて長いのかい?」


 寧ろちゃんと住んでいたのかと、うろんげな眼差しを投げられる。


「ええ、八つのときまでですが」


 本当は名を名乗ればすむ話だった。


 村は閉鎖的な場所である。
 生きていく為には、人々は団結せねばならない。
 ならば、そうそう他所者を入れるわけにはいかず、怪しい影があれば害悪があるかどうかを即座に見極めねばならなかった。
 それ故墓守に何一つ非はなく、むしろ今は名を名乗らない自分が間違っている。
 それでも、名乗りたくなかった。
 ひの、とたった二文字の言葉なのに。


 少し間があって、墓守の瞼が上がった。


「ああ、そうか。樋乃さんとこの」


 言葉が終わりに近づくと、語勢が急速に萎んでいった。
 最後には気まずそうに視線を地に転がす。
 ひの、と空気に音が残ったような気がする。


 小さな村だ。
 隠そうとしても姿か見えなくなれば人々は怪しみ、座敷牢があったとしても声が漏れる。
 何年も隠し通せるはずがないのだ。


「母の死因をご存じでしょうか」


「……家には帰らないのかい」


 わずかに首を振って否定して、あの閉鎖的な家を思い出す。
 自分が昔から人で非ざるものを見たからかもしれない。
 家の者は常に自分と、自分を生んだ母を疎んじていたようだった。
 得体の知れない子供を得体の知れない所に厄介払したのだから、今更その子供が帰ってこられても当惑するだけだろう。


 だからこそ、母の死は素っ気ない手紙で伝えられた。
 帰ったところで得る者もないだろうし、そんな所にのうのうと帰れる程自分の神経は太くない。


「肺炎だったそうだ。寒い年だったから、風邪でも拗らせたんだろう」


 籠もった村の最も奥まった病室の蚊帳の中で、母は死んでいったのだ。
 死に多く面する自分がそう嗅ぐことのない、生きながらも細胞の死滅していく死者の臭いを発しながら。


「母の墓は、樋乃の敷地にありますか」


「ああ。案内しようか」


 この墓守は自分の名前までしっかり覚えているのだろうか、と彼の名前を思い出せないまま頭を下げて乞うた。




 あれの母親は精神を病んでしまったのだと、聞いた。
 ちょうど数代前のように血を色濃くしてしまったのだろう、と。
 そうして異形の者を恐れて恐れて、ついには目を伏せるように世界から目を逸らしたのだ。


「あれの母親は巧く隠し通していたようだが、あいつはなまじ力が強すぎた。触れられてしまえば、ごまかしようがない。母親にとっては違う場所にあるものだったのだろうが、孝昭には隣人と同じものだったのだろうな」


 ゴウトはそこで言葉を切って、鳴海を窺った。
 当の鳴海は視線をコーヒーカップに注いだまま、聞きの態勢に入っている。
 視線や言葉での促しは一切ないのに、洗いざらい話さねばならないような気にさせられた。
 どこまで話すべきか迷いながら、ゴウトは再び言葉を探した。


「葛葉は万年人手不足だからな、樋乃を気にしてはいたようだ。現に一度孝昭を引き取りたいと申し出てもいたらしいが、母親と祖母が強く反対して断念したそうだ」


「やな雲行きだな」


 鳴海がコーヒーカップを脇に避けると、溜息交じりに零す。
 自由になった方の手で髪を弄って、壁に目をやった。
 視線の先で時計が七時を指している。


「もう言わなくても大体分かった。要はあれだろ? そもそも樋乃の大半がライドウをどっかにやりたかったけど、理由もないし二人が喧しかったからできなかった。でも、おっかさんがああなっちゃって、周りの奴が適当に祖母さんを言いくるめたってところだろ?」


 ああ、やだね。
 大人は汚くて。
 そんなことを漏らしながら、鳴海は大仰にいすの背もたれにもたれる。
 反論する必要もないので、ゴウトは瞼を下ろして寒空を思った。


 鳴海が隠した言葉がある。


 幼い頃の彼は全てを知っていた。
 知らされていた。
 間違いなく彼は試されたのだ。




 人の霊をあまりみないのは、ありがたいことなのだろう。
 頻繁にみればきっと苦しくて、悲しくて重圧に負けてしまっていただろう。
 こんなにも感情は長く残ってしまうのか、と絶望して。


 案内された墓は平凡なものだった。
 過度に豪勢でも、貧相でもない。
 樋乃の者達は彼女を他の者と同じように扱ったらしい。
 時が過ぎてしまえば、恐らく彼女の記録など消え失せてしまうのだ。
 それがいいことなのかどうなのかは分からない。


 墓守はそれじゃあ、と言って、来た道を戻って行った。
 それじゃあ、の後には何もなかった。
 早く帰れ、ともゆっくりしていけともとれる都合の良い言葉。
 どちらにせよ長居してはまともな時間に帰れなくなるので、深く考えず背に礼を述べた。


 気配が十分遠ざかってから溜息を吐くと、湿気た空気が白く渦巻いた。


 母がもし墓前にいたらどうしようかと思わないではなかったが、取り越し苦労にすぎなかったようだ。
 母の墓はおろか、墓地に人でないものの気配は感じなかった。


 墓前にしゃがんで手を合わせる。


 今にも切れてしまいそうな細い細い糸。
 幼い記憶の中で母の声も肌も髪も瞳の色も色あせて、今では引き絞られた印象のみが残っていた。  彼女は自分達にしか見えないものを常に恐れていた。
 あの人が対岸にいってしまう少し前、何かにひたすら怯えていたのを覚えている。
 いつもは自分にも見えるものを彼女は恐れていたのに、あのときだけは何に怯えていたのか分からなかった。
 何に怯えていたのか、逃げようとしていたのか。
 そもそも既に彼女が幻覚を見ていたのかもしれないし、悪意を持って彼女に接した者がいたのかもしれない。


 幼い頃の自分はまず、葛葉を疑った。
 母を陥れ、自分を連れ去ろうと目論んだのだと。
 自分を守っていたのは間違いなく母と祖母だった。
 孫までああなるのを見たいのですか、というタイミング良く現れた葛葉の遣いの言葉に祖母は陥落した。
 精神の病気は遺伝するといわれているから、祖母も片隅では思ってはいたのだろう。


 当時の自分は無理に連れていく程の価値があるのかと、訝しんだものだった。
 今を思えば、一度しか関わりのなかった一族から名を継ぐところまで行ったのだ。
 大当たりだったのだろう。


 葛葉には感謝している。
 自分が生き抜く術を与えてくれたから。
 八咫烏も自分が人であり続けられる環境を与えてくれた。
 だから利己主義に動き、葛葉の者が母を苦しめたとしても一概に貶すことなどできない。
 母を苦しめた相手を簡単に憎むこともできない。


 長く閉じていた瞼を上げて、音を立てずに立ち上がった。


 たとえ真実がどうだったとしても、変わらないことがある。
 あの頃、自分の精神は軋んでいた。


 あなたがいなければ狂っていたのは自分だった。





 「母さん」