朝の日差しが帝都を照らしてまだ数時間と経たない時間帯。
そのくせして大通りは騒然としているようで、開け放った窓から喧噪が聞こえてくる。
所謂登校時刻と出勤時刻が重なる今、勿論探偵社は閉店状態。
日捲りカレンダーが一週間以上捲られていないのに気付いて、画鋲が取れないように押さえて一気に千切る。
纏まった紙を握って、最近立て込んでいて真面に学校へ行っていないのを思い出した。
出席日数が足りているか確認しなければ、と紙屑を捨てた後外套に腕を通しながらぼんやり考える。
肩を揺らして外套を馴染ませると、習慣になりだした仕草をする。
つまり、壁のフックに掛かった鍵を取る為に腕を上げる。
けれどどうしたことか、冷えた金属の感触はそこにはなかった。
鍵が無い。
戸はしっかりと施錠してあって、その上同居人は同じ部屋にいるので鍵を使われた可能性は低い。
いつも戸の横に打ち付けてあるフックにぶら下げていたはずなのに、金属光沢を放つ鍵は見当たらない。
「鳴海さん、自分の鍵を知りませんか?」
振り向いて訊くと、鳴海が新聞に隠れていた顔を覗かせる。
「いや、知らないよ?」
それだけ言って、鳴海は我関せずとコーヒーに口を付ける。
鳴海は自分に今特筆する程の仕事がないことを知っているのだ。
だからといって、帝都の見回りを怠ってよいという話にはならない。
小さく溜息を漏らして、一本の管を取り出した。
「たかがそんなことに悪魔を使うのか?」
足元のゴウトが揶揄するように笑う。
「そうだよライドウ君、捜し物くらい自分ですればいいのに」
鳴海がコーヒーをソーサーに戻して、ゴウトに同調する。
普段お世辞にも上手く行っている関係とはいい難いのに、波長があった瞬間だけは双方上機嫌になる。
今回も御多分に洩れず、ゴウトが黒い尾を振りながら所長の机に乗った。
「その言葉そっくりそのままお返ししてもいいですか? それに、貴方が気紛れでも起こして締め出されるのは御免です」
天気がぐずついた日に実際あった話だ。
陳腐な科白を言い捨てると、言の葉を唱える。
唱え終えると、管が淡く光った。
「ヌウ、ドウシタさまなー?」
呼び出されたヌエが、いつもと違う様子を感じ取ってか小首を傾げる。
「鍵をなくしてしまったから、探して欲しいのです。頼めますか?」
「オヤスイゴヨウダ」
ヌエが体に力を込め、辺りを探る。
暫し待つ間に鳴海と視線がかち合い、何故か彼が怪訝な表情を作る。
「ねえライドウ」
鳴海が新聞を畳むと椅子から立ち上がって、近付いてくる。
後一歩で衝突するだろう距離で足を止めると、顔を覗き込まれた。
「何ですか、鳴海さん」
思案の為か顎に乗せられていた指が、癖のある髪を撫でる。
「さまなーコイツダ。コイツガナニカカクシテル!」
鳴海が逡巡している間にヌエが調査を終え、声高に叫んだ。
コイツというのは、ヌエと自分の目先の鳴海のことを指しているらしい。
「ばれちゃったか」
髪を撫でていた手を後頭部に回し、子供のように笑いながら後ろ頭を鳴海が掻く。
机を見ると、あからさまに不愉快を示しているゴウトが机から飛び降りていた。
「貴様、事によれば容赦せんぞ!」
「ちょっ、端っから話聞く気無いんじゃないの!?」
助走を付けて踏み込んだゴウト体は緩い放射線上に進み、鳴海へ飛びかかる格好になった。
ゴウトの突進を鳴海は避けるまでもなく両の手で受け止める。
「鳴海さん……」
まずはヌエを撫でてマグネタイトを渡すと、管に収める。
鳴海の手から逃れる為か手の中で大暴れするゴウトに視線を合わせないようにして、鳴海を咎めた。
「いやいや、ライドウちゃんくらい話聞いてよ」
自分に意識を向けたせいか鳴海の腕の力が緩んだようで、ゴウトが宙を舞い無理矢理に着地する。
「一体どういう訳です」
ずれたわけでもない帽子を被り直して、忌ま忌ましく言う。
全く、この上司は、と内心で毒づく。
この人は時折訳の分からないことをするのだ。
「最近忙しかったよね?」
「ええ」
間違いなく忙しかったのは事実なので素直に頷く。
「ライドウ君。君さ、今日鏡見た?」
洗面台には立った。
けれど歯を磨いて、顔を洗った他に記憶がない。
見たか見なかったと訊かれれば見ているのだ、恐らく。
たとえ見ていたとしても、覚えていないのなら見ていないのと同じなのだろう。
「真面に、見ていませんが」
「やっぱり」
なら分からなくて当然だね、と鳴海が薄く笑う。
笑みはそのままに鳴海が視線を外して彼の上着に手をかけた。
「隈が走ってるよ」
半端に上着を着た状態で下瞼を指さされて、思わずその場所に指を当てる。
目元を押さえてみたところで、目の下の青黒い染みが分かるわけではないのだが。
「だからさ、俺銀ブラして来ようと思うんだよね」
満面の笑顔。
「だからでまとめないで――」
耳元で囁かれて、漸く彼の意図を理解する。
「ライドウはお留守番しててね?」
返事ができずに立ち尽くすと、鳴海はまだ不機嫌の塊のままのゴウトにひらひらと手を振った。
そうしてから、自分を見る。
「じゃあ、ね」
頷いて顔を隠した。
俺は君が傷付くことで得られる平和を否定することはできないけど、君が無駄に傷付くのを黙って見てはいられないよ。
鳴海は確かにそう耳打ちした。
呆然としながら反芻する内に壁にへと体が揺れて、頭の位置が下がる。
体がずり落ちるのに任せていると、視界の端に黒猫が映った。
とうに鳴海は探偵社を後にしたようで。
「何を言われた?」
「今日は休むように、ということだと……」
心配されているのだろうか、と思うと目眩に近い感覚を覚えた。
一体いつ以来だろうか。
少なくとも葛葉一族の元に行ってからは、人間らしい感情を向けられたのは数少なかったはずだ。
ならば、このような感情は起こり得まい。
自分に芽生えたのは、むず痒いような申し訳ないような、けれどそれとは明らかに違う感情。
自分はその感情の名前を忘れてしまった。
「今日はお言葉に甘えようと思います」
「……そうするといい」
今の自分が役に立たないと悟ったのかは知らないが、ゴウトは一度瞼を落としてから自分に視線をやって、窓へと姿を消した。
探偵社に沈黙が戻って、ゆっくりと腰を上げる。
念の為、確認した扉は鍵がかけてあった。
恐らくこの感情は遥か昔に忘れさせられた、人としての感情なのだ。
誰が見たところで、ただの子供でしかなかった。
そんな日があった。
幼い頃、自分はこの感情をなんと呼んだだろうか。
力無く長椅子に倒れ込むと、染み込んだ紫煙の香が肺に落ちた。