澱む、澱め、澱みなさい



 飲んでいる。


 ライドウが帝都に来て初めて大怪我を負ってから、僅かな間ながら断っていた酒を浴びる勢いで飲んでいる。
 鎮痛剤が効いていて昏々と眠るライドウを前に、酔っ払っている場合ではなかった。
 同時に、こんな状態の彼を置いて、事故でも起こしたりして死ぬわけにはいかないと思った。


 全快したライドウはさも当たり前だというように、帝都の巡回に復帰した。
 探偵社を出て行く肩はいやに狭く見えて、細い体は重圧にすぐにでも折れてしまうのではないかと寒気がした。


 お前に代わる者などいないのだ、と忠告することは簡単だ。
 けれど、忠言はその細くて薄い体の表面を滑るだけだろう。


 アルコールは人の精神に躁鬱を及ぼす。
 気が高ぶっているときは箸が転んでも楽しめそうだったし、酒が抜けても気分は爽快だったりする。
 反対に沈んでいるときはとことん沈んでいく。
 進んで誰かにそういう姿を見せたいとは思わないので、気分の優れないときは酒は飲まないようにしていた。


 今も生死の狭間にいるのかも知れないライドウという少年を一時でも忘れる為に、酒を浴びる。
 酒を飲む手が止められないのは、いくら飲んでも少年が網膜にちらつくから。


 竜宮というおおよそ彼とは一切関係のない場所で酒を煽り、瞼を下ろす瞬間、もうライドウは家に帰っているだろうかとか考えてしまう。
 時計で時間を確認するのが嫌で堪らなかった。


「鳴海さん、もう看板よ」


 わざわざ女将がもう帰れと言いにきたということは、会計がかなりのものになったということだろう。
 最近大きな仕事をした具合で、懐は十年に一度にあるかないかの温まりようなので、支払いは問題なかった。
 重みを感じる財布を取り出すと、中身を覗き込む。


「おいくら?」


 尋ねると、女将が無言で勘定書をついと机に少し滑らせながら置いた。
 いつもならば表情を強ばらせなくてはならない金額だが、今日は容易に支払える。
 財布から勘定分を取り出して、意外そうな顔をしている女将に手渡す。


「前の付けの分も取っといてね」


 慣れた手つきで札を捲る女将に告げると、意外そうに視線を向けてくる。
 顔は札に向いたままで、一瞬上目使いになった艶やかな瞳はすぐ札に戻った。


「急に羽振りがいいのね」


 数え終わって算盤を取り出すと、珠の滑る音が響く。


「大口の仕事が片付いたから」


 労働の報酬というのはあってしかるべきで、かくいう自分も八咫烏からいくらか金品を受け取っている。
 自分はろくすっぽライドウに給料とか、小遣いをやっていない。
 必要ないと言われたのだ。本人ではなく、組織から。
 だから、ライドウは不満に思っているかもしれない。


 ライドウが葛葉の組織から物を貰っている様子はない。
 そんな彼は何を報酬に文字通り身を削っているのだろうか。



 都電は既に走っていなくて、タクシーを呼んで貰った。
 夜空の下で粒子の細かい空気に触れると、火照りが強調される。
 夜風に当たっても一向に酔いが醒めないのは、深刻な思想をせずにすんで好都合ともいえた。
 段々と朦朧とする頭で住所を告げ、一瞬乗り物酔いをしないだろうかと心配になる。
 だからといって、歩いて帰る自信はなかったのだが。


 車が丁寧に地面の凹凸を拾うので、自宅に着くころには予想通り胸がむかついていた。
 釣りがたいした金額にならないと分かったので、釣りを断って代金を支払う。
 一刻も早く家に入りたかった。


 多少とも多めに稼げたからか、それとも嫌がらせからか、長々と別れの挨拶を述べてからタクシーは静まった公道へ消えて行ったようだった。
 遠ざかって行くタクシーを禄に見送らず、家に半ば走る勢いで入る。
 家の中は暗いままで、どうにか手探りで明かりを付けた。
 いよいよ悪くなった気分を抑えながら、薄ら寒い廊下を急ぐ。
 厠まで行き着いた途端衝動が膨れ上がって、慌てて戸を開けた。


 一度戻すと、胃液やらなんやらの臭いで余計気分が悪くなった。
 胃の中の物が全部出たのではないかと思う程に吐いて、口の中は酷い味だし、喉は痛くて、鼻の奥がつんとする。
 思う存分吐いたのに、気分はまだ優れなかった。
 物理的に排除しただけではどうにもならない気分の悪さが、胸にわだかまりを作る。


 生理的に浮かんで目尻に溜まった涙を人差し指で拭い取り、ゆっくりと立ち上がる。
 アルコールが足腰にきているらしく、ふらつくのを叱咤して洗面所まで歩を進めた。


 思う存分うがいをして舌の間にしつこく残る酸味を取ると、そのまま顔を洗う。
 顎を滑る水滴を手で掬いながら、手拭がどこにあるか分からないことに気づいた。
 いつもそこにあるべき手拭を手探りで探すのだが、一向に柔らかな布地に辿り着かない。


「鳴海さん」


 水滴が服に落ちないように注意して、声の方に顔を上げた。
 声の主は捜し求めた布を持っていて、当たり前という風に手拭を差し出した。


 受け取ってから、こんな時間まで起きていて、と思う。
 酔って火照った頬に水が心地よいので、必要以上に水分を取らないように軽く顔を拭いた。


「ライドウちゃん起きてたの?」


 別に待っていてくれなくてもよかったのに、と茶化して笑う。
 言外の意味がくみ取れなかったのか、少し間があってからふいとライドウが目を逸らす。


「たまたまです」


「そう?」


 少年が何の為に起きていたかなんて、実にどうでもいい話。


「でも、こんな時間まで起きてたら、明日に響くよ?」


 手拭を定位置に戻して、軽く咎める。
 酔っ払いが保護者面をするのに気を害したのか、ライドウが少し眉を顰めた。


「鳴海さんこそ、そんな飲み方をして――」


 睡魔が誘ったのかもしれない。
 ライドウは言葉を切ったけれど、何を言わんとしたのかは明らかだった。
 否、言葉を切るという行為が、発されることのなかった意向を明確にしてしまった。
 いつもはきっと言おうとしない、その言葉。


「……もう寝ますから、鳴海さんも早く寝て下さい」


 御休みなさい、と口早に言うと返事も待たず、ライドウは背を向けた。
 やはり狭くて細い背を見送った後、小さく吐息を漏らす。


 多分彼は、ライドウはそんな飲み方をしていたら死んでしまう、と言いたかったのだ。


「うん、そうだね」


 誰もいない廊下で、語られることのなかった言葉に返事をした。
 過ぎた飲酒は体を壊すに違いない。
 喫煙もしかりだ。
 恐らく自分は寿命を全うすることははおろか、禄な死に方をしないだろうけれど。


「でもお前よりかはましだと思うんだ」


 それでもどうか、俺よりも早く死なないでくれと祈るのもまた、真実で。