恋愛方程式



「でも障害がある方が燃えるって言うわよね、普通」


 いつぞやマッチが文字通り山のように積んであったりもした机に乗るのはソーサーとコーヒーカップ。
 お茶菓子がイモケンピなのだからコーヒーよりも緑茶の方が良かったのかも知れないが、両者とも気にした様子はない。


「それだと普通恋愛が軽んじられてると思わない?」


 机に肘をついてイモケンピを回しながら、視線をこちらにやって鳴海が同意を促す。
 話を振られるとは思ってもみなかったのもあいまって、どう答えるべきか分からなかった。


「探偵さん、ライドウ君を苛めちゃ駄目じゃないの」


 タヱの言葉に抑制力を感じないのは、彼女が機嫌よく笑っているからだろう。



「そういうつもりじゃなかったんだけどな」


 鳴海が苦笑して、イモケンピを口に銜えた。


「一体何の話をしているのですか?」


 探偵社に帰って来たときにはすでにタエは長椅子に腰掛けていて、鳴海と供にただひたすらに恋愛云々を語っていた。
 探偵社の依頼客としてではないようだが、個人的に訪ねてきてくれている人に鳴海は茶の一つも出していなかった。
 自分が探偵社にくる前の接客がどんなものだったのかと想像すると、ぞっとしないものがある。


 そうして、コーヒーとイモケンピを出して、今に至る。


「タヱちゃんのお友達が貸してくれた本の話なんだけどね」


 鳴海が薄い冊子を手に取って、宙に泳がせる。
 一通り揺らした後、差し出してくるので受け取って表題に目をやった。


「夕暮れの蝶……?」


「今、女の子の間で流行ってる恋愛小説なのよ」


 タヱに言われて、冊子を開こうとした手が止まる。


「でさ、粗筋聞いたんだけど、納得行かない内容だったから話してたんだよ」


 自分の興味の為なら延々タヱが居座ったところで、鳴海は全く気にしないようだ。
 寧ろ仕事を持って来たときには追い出すのに精を出すのに。


 仕事をするときもこれの半分でも乗り気だったらいいのに、と思わずにはいられない。


「どういった話なのです?」


 理不尽に駆られる感情を皮膚一枚下で押し止どめて、一応尋ねる。


「あ、やっぱりライドウちゃんも気になる?」


「いえ、話の流れ上訊いておくべきかと思ったので」


 一瞬声のトーンを上げた鳴海だったが、返事を聞くやいなや上げていた腕を下げる。
 そういうときは笑っていればいいんだよ、とも漏らした。
 以後気を付けます、と言ったところでまたなんともいい難い表情で相槌を打つだけだろうから黙っておくことにする。
 沈黙の中、手持ち無沙汰にイモケンピを齧っていたタヱが小さく挙手する。


「粗筋、話してもいいかしら? 色々な人の意見を聞いておきたいの」


 頷くと、タヱが人当たりの良い笑みを浮かべる。


「この話の主人公は良い所のお嬢さんなの。それで小さい頃から許婚がいるんだけど、その人が才色兼備の完璧な年上の男の人なのよ」


「その上、品行方正でホント優良物件なわけだ」


 タヱの説明に鳴海が横槍を入れる。


「……探偵さん、人が話してるときは邪魔しちゃ駄目よ?」


 まるで子供を諭すようだと思いながら鳴海を見ると、またも彼は苦く笑っていた。


「ちょっと補足しただけじゃない」


「普通はその人と入籍して終わる話ですね」


 逸れかけた会話を戻すべく、一般論を述べる。
 実際、才色兼備かつ品行方正の人物なんていたら誰もが交際を望むだろう。


「そう、なのよね。でも主人公は容姿も家柄も学歴も特に秀でたものがない人と逃避行しちゃうのよ。まあ、結局追い詰められて心中しちゃうっていう話なの」


 紆余曲折があっての悲恋の物語なのだから、はしょってしまえば予想甲斐がなくなるのはしかたない。


「死ぬ程のことですか」


 言ってから初めてイモケンピに手を出す。
 鳴海がホントにね、と同調した。


「相手がどうしようもない醜男ならともかく、王子様みたいなのにな」


 続けて何か言おうとして、ええと、と鳴海が口籠って言葉を探す。


「ああ、恋に恋するお年頃って奴だ」


「確かに主人公の娘、やたらに恋がどうのって言ってたわ」


 タヱが冊子のページを捲って、文字に目を走らせる。


「これこれ。『憧れは恋じゃないの』ですって」


 極力棒読みで読み上げたのは、恐らく台詞が羞恥心をそそるものだからだろう。


「未婚者が言うのもなんだけどさ、恋だけじゃ結婚はできないと思うんだけどねえ」


 二人が話し込んでいる内にゴウトが長椅子に飛び乗って来たので、皿からイモケンピを取って鼻先に差し出す。
 さして苦もない様子でゴウト自分の顔程に長さがある芋菓子を銜えて窓際へと戻った。


 視線を戻すと、二人がゴウトの経路を目で追っている。


「猫ってあんなにお砂糖まみれの物食べても平気なのかしら」


「大丈夫じゃない? 偏食なのは確かだけど」


 自分は今まで、面倒臭そうに厄介払いをしたがる鳴海に食い下がるタヱしか見たことがなかった。
 仕事、という文字がなくなるだけでこれだけ円滑に関係が進むのだ。


 もう少し、仕事に意欲を見せてくれれば良いのに、と再度胸中で毒づいてイモケンピに手を伸ばした。