小話2



 懐に翠玉の瞳が美しい黒猫を隠して、都電に揺られて数日の慌ただしさを思う。
 もっとも、慌ただしく感じたのは己のみであったのだろうが。


 そう。 近い内に十四代目葛葉ライドウの襲名が行われ、襲名と同時に帝都への任務の手続きは一族にとっては予定というよりも計画。
 しかるに葛葉ライドウが鳴海探偵社とやらに行くのも、全く突然ではないのだろう。
 たった一人、本人を除いての話だが。


「ゴウトさん」


 周りに誰もいないのを確認してから、懐の温もりを呼ぶ。


「どうした、孝昭」


 外套の隙間から日光を反射しているのは碧の瞳。
 他は外套に溶け込んでいる中、瞳だけが輝いてただただ美しい。


「帝都は、どのような所なのでしょうか」


 縦に細い瞳孔が少し揺れる。


「……行ったことがないのか?」


「ええ」


 頷いた具合で前にずれた帽子を被り直して、黙り込んでしまった黒猫を見る。
 何か、おかしなことを言っただろうか。


「ゴウトさん?」


 再び彼を呼ぶと、つまらなさそうに目を細められる。


「なに、少々喧しいだけだ」


 最後にはふいと首を胴に埋めたらしく、瞳さえも外套の隙間からは伺えなくなった。
 都電の軋む音に耳を傾けると、単調な調子に瞼が重くなる。


「孝昭」


「はい?」


「眠るなよ」


「はい……」


 外套に遮られている状態でどうやって自分の眠気を悟ったのか分からないが、ゴウトに釘を刺される。
 数日慌ただしかったせいで、禄に眠れていなかったのにまだうたた寝することも許されないらしい。


 目を開けたままでも意識が霞みかけたころ、都電がゆっくりと速度を落とした。


「そら、着いたぞ」


 そうですね、とかなんとか言って席を立って、出入り口に行く頃には都電は完璧に止まっていた。


 降り立った矢来区は、古い建物とその中に近代的な建物のが並立する発展途上地域。
 もう数時間違えば情景も違っていただろうが、平日の昼間も真っ最中の駅前は閑散としていた。


「いない、な」


 足元のゴウトに習って自分も見回してみるが、それらしい姿は見当たらない。
 役立たずめ、と漏らすゴウトの愚痴を聞き流しながら胸元の時計を探る。


「でも、待ち合わせまでは後五分あります」


 自分の言葉にゴウトが機嫌を損ねたのは火を見るも明らかだった。
 ゴウトは大仰に溜息を吐いて、そこらの塀に飛び乗り丸まってしまう。
 なんとはなしにこの先、ゴウトという目付役とうまくやっていけるのか不安になった。


 どれだけ駅前が閑散としているとはいえ、黒猫と会話をし続けるには人目があり過ぎるのでただぼうっとしていた。
 俯き加減になって目を伏せると、遠くの音が時々風に乗って耳に届く。
 どうやら寂しいのは駅前だけのようだった。


 本当にその町の音に紛れる程に微かな着地音に瞼を上げたと共に、誰かが近づいてくる気配を感じた。
 優美な曲線を描くゴウトの背を見た後に、自分の手の中にある時計を確認する。
 約束の時間は残り二分に迫っていた。


 視線を上げると、こなれた風にスーツを着込んだ男性が人当たりの良さそうな笑みを浮かべた。


「葛葉ライドウ君?」

「鳴海探偵社の方ですね」


「そうそう。俺が鳴海。これから宜しくね」


 右手を差し出され、訳が分からずに鳴海を見る。


「葛葉君?」


 鳴海が不可解そうに自分を呼んで、やっと右手の意味を理解した。


「……いえ、自分こそ宜しくお願いします」


 やっとそうとだけ言って、右手を握り返す。
 ぐらぐらする頭に無理やり言い聞かせた。
 そうだ、これは握手という行為なのだ、と。


 そんなことも忘れていたのか。
 そう、何かか耳元で囁いた気がした。