『fall in love by an urban regend!』サンプル



比較的健全な冒頭

 彼女の自慰を見たのは確か先週の金曜日だったか。アルフレッドだって始めこそ通学すら緊張したが、学部が違えばそうそう顔を合わせることはない。
 唯一の接点であったサークルすら、昼休みによく顔を出す彼女と放課後に長居するアルフレッドでは顔を合わせる方が珍しかった。
 唯一確実に会って会話をする機会があるとすれば、隔週で金曜日に行われる定例連絡会くらいだろう。
 それがちょうど先週の金曜日だったわけだ。
 まあ、そんなこんなで完璧に気を抜いていたのだ。これ以上ないくらい完全無欠に。

 一時間半は実に中途半端な時間だ。
 一人で潰すにはあまりに長いが、一方複数人だと短すぎる。
 大学の陰謀なのか土曜日に二限も入れられた語学はご丁寧にも空き時間が設けられていて猛烈に暇でしかたがない。
 その上昼休みを挟んでいるから、実質二時間半を持て余すことになる。
 しかし、土曜日に二限詰められている輩はあまりいないから、遊び相手にも恵まれないのが弱りどころだ。
 サークルにも顔を出してみたけれど、スペースにいるのはフランシスだけだった。
 かくいう彼もどうやら課題のデッサンをしているらしいので、遊びに誘っても断られるのは火を見るよりも明らかだ。
 だから仕方なく、アルフレッドも静かにレポートのための学術書を捲っていた。


「あれ、この時間って授業あったよね。さぼり?」


 ちょうど感心のあるページを拾い読みし終わった辺りで、フランシスが心底珍しいとでも言いたげな声を上げた。
 扉を開ける音など聞こえなかったように思うが、それだけ集中していたのだろう。


「いや、教授がエジプトへ発掘の様子見に行ったから今日は休講」


 ふうん、と何の気もない相槌と一緒に鉛筆を滑らす音が聞こえてくるような気がしたが、アルフレッドには半分聞こえていないようなものだった。
 あの声は間違いなくあの人だ。青ざめていいやら赤くなっていいやら判然としない。
 ただ、心臓だけがばくばくと焦燥感のある鳴り方をしていた。


「お前だけか?」
「ううん、奥のソファにヒーロー君が転がってる」
「……おはよう、先輩」


 おや殊勝、とほとんど同じタイミングで二人が口にした。
 それからアーサーがフランシスを忌々しく睨んで、アルフレッドに視線を向ける。
 あのときの紅潮した頬を思い出してしまうけれど、目の前にいる女性は涼しい顔をしていた。


「知恵熱でも出たのか? いつもなら先輩すら付けないのに」
「さっきはいつも通りだったのにね」
「うん、まあ、名前を忘れたときに便利だよね」


 さすがに意識してしまってファーストネームで呼べなかったけれど、代わりのファミリーネームが咄嗟に出てこなかったなんて口が裂けてもいえない。
 だから嘘とは言い切れないだろう。
 不服そうに顔を歪めて彼女が近寄ってくるので、ソファで長くなっていた体を九十度回転させて腰掛ける。


「……本気か?」
「アーサー・カークランド。イングランド地方出身、母国語イギリス英語、二十三歳女性、最近カレーに凝っていて、簿記二級を取得。これで満足かい?」


 見下ろしてくる視線には怒りが籠もりながらも、どこまでも深刻な色が湛えられていて罪の意識に囚われる。
 降参のポーズを取って、ぱっと思いつくイメージから料理下手とかのマイナス要因を除いて列挙する。
 プライベートの情報を上げだしたから動揺したようだったけれど、少しずつ表情が緩んでいくのが分かった。
 おかずにしているくらいだから、この人はアルフレッドが好きなのだろうか。
 少なくとも単なる一後輩に自分のことを知られていると実感するだけで、こんなにも嬉しそうにするとは俄かには思えない。
 いい子だと満足そうに告げて、アーサーがソファに腰掛ける。
 距離感を図るためにアルフレッドの方へ向けられる下向きの瞳に囚われそうになって、無理やり借りてきた本に目をやった。
 クリーム色の紙には黒いインクしか乗っていないはずなのに、きらきらした睫毛の金色が視界の端にちらついて仕方がない。

 きらきらきらきら。
 光るたびにとんとんと心臓が音を立てる。
 これはまずい。
 こんな反応、ただ少し意識している程度の説明ではすまない。
 心が恋をしようとするときの、と形容するに相応しい。
 恋をするのが悪いなんていわないが、切っ掛けがあんまりにもあんまりだ。
 ああでも、あんな可愛らしい声で乞われて、心が揺れない男なんてものがこの世にいるのだろうか。


「……ジョーンズ?」
「え、あ、なんだい先輩」


 幻視ではない金色が視覚情報として入り込んできて、思わず盛大に仰け反った。
 勢いで本まで閉じてしまっていたら、覗き込んできていた彼女の頭とは言わずとも髪を挟んでしまっていただろう。
 それではあんまりにもかわいそうだ。


「なあ、今日こいつ大丈夫か?」
「知ーらない。お腹空いてるんじゃないの?」


 話しかけて反応がなかったのを指して大丈夫かと問われているのなら、全くもって聞いていなかったから何一つ反論できない。
 本に集中していたからとでも主張ができないわけではなかったが、多分目の焦点なんて合っていなかった。


「お腹なら空いてるけど」
「そういや、お前今日は何も食ってないんだな。いっつもハンバーガー食ってないともたないと思ってた」


 からかう口調で指摘されて、いつもならこの時間には既に口に物を入れている事実に思い至った。
 十一時半前と言ったら早朝バイトをしている身分からすればむしろ遅いくらいの時間だと思う。
 さっきから空腹の波は来ていたものの、口に出すと如実に内臓が反応し出した。
 これはもはや参考書を読んでいる場合ではない。


「何か食いに行くか? とはいえ、もう学食は一杯かな」
「いや、今日だったら大丈夫じゃない?」
「先輩も来るのかい? いや、構わないんだけどさ」


 困惑の色と共に答えると、如実に気を落とすような顔をするのだから堪らない。
 フランシスは学食で物を食べる印象がそもそもないし、アーサーが同席を許すようには思えなかったから恐らく二人きりになってしまう。
 小一時間の間、果たして自分は違和感なく振舞えるだろうかだけが心配だ。


「じゃあね、二人とも」


 部屋の奥の方にいる人間に向かって手を振ったところで窓から出て行くわけではないから、随分間抜けに映るのはアルフレッドの主観だけではないだろう。
 やはりアーサーもその違和感のある行動が気に触ったらしく、ほんの少し眉を顰めた。


「なんだ、随分追い出したがるな」
「ぺちゃくちゃ話されてたら集中できないからねー」


 くるりとデッサン用の鉛筆を回しながら、フランシスが高い調子で返してくる。
 けれど一瞬、によ、と笑ったところを見る限り、どうやらアーサーの声色を正確に聞き取ったのだろう。
 アルフレッド自身、それに従うかどうかは別にして、日本でよく口にされるその場のムードである空気はそれなりに読める自信がある。
 しかし、人の心の機微を詳細に読み取るのには随分疎かった。
 心の機微は自然に感じ取るものではなく、積極的に読もうとしなければいけないものだからなのが原因だとは思う。
 他者と必要以上に気を使いあう関係なんてくそ喰らえと考える質の人間だから、多分一生その能力は磨かれないだろう。
 だから、今日まで彼女の振る舞いがこんなにも自明なものだとは気づきもしなかった。

 一方フランシスは付き合う付き合わない、果ては性交渉をするしないに関わらずに女の人と甘やかな時間を過ごすことを好む。
 そのためには当然相手の感情の機微を読まなくてはいけないから、アーサーの心の動きなんてものは筒抜けだったのかもしれない。
 だからこそ、フランシスはその恋心に微笑む。
 もしかしたら彼はアルフレッドのことすら笑っている可能性だってないとはいい切れなかった。


「その程度でできない集中なんて高が知れてるんだよ」


 見事としか表現できないような鼻の笑い方をして、アーサーがソファを立とうとした。
 元々背が低く奥に行くほど深くなった作りのそれは学生の本業を忘れさせる魔のソファとして怖れられているだけあって、立ち上がるのには普通の椅子よりも随分力が要る。
 手伝ってやろうとちょっとした辞書くらいなら入れられそうな鞄を持っている腕を支えてやった瞬間、ぴくんとアーサーの体が震えたのが分かった。
 こういうのは狡い。


「……ありがとな」


 本能に近いところの怯えた反応はすぐに過ぎ去ったらしく、やっぱり嬉しそうな顔で彼女は笑う。
 自分が気づかなかっただけで、ずっと彼女はこんな風にアルフレッドに接していたのだろうか。
 だとしたら随分滑稽な話だけれど、多分真実は自分の色眼鏡と彼女そのものの振る舞いの半々で成り立っていると考えるのが妥当だろう。


「どういたしまして。じゃあ」


 あまり意味のない掛け声の後、僅かばかりの沈黙を残してしまう。
 アーサー、と呼ぼうとした喉が引き攣ってしまったからだ。
 こんな気持ちでファーストネームを呼んでしまっては、後々碌なことにならないような気がした。
 口に残っていたつばを飲み込む振りをして、この静寂が体液の処理のためだったのだとアルフレッド自身にも言い聞かす。


「行こうか。どこがいいかな」


 やっぱり彼女の後ろで声もなくフランシスが笑っている。
 全部分かった上で、一人高みの見物をするのはさぞや楽しいことだろう。
 今度あったら何か作ってもらう約束でも取り付けてやらないと気がすまない。


「坂の所の奴は丼すら不味いしなあ。とりあえず、一番近い所から当たってみるか」


 フランシスの視線にも彼に対するアルフレッドの苛立ちにも気づかないアーサーが嬉しそうに指を折りながら先導する道を歩いて行く。
 扉の近くにある照明の電源を彼女がさも当然の如く落としたので、その場で口には出しはしない代わりに心中で賞賛を送った。


「さすが先輩」
「んー? よく学べよ」


 廊下に出てから少しだけ笑うと、アーサーが得意そうに少し胸を張って見せる。


「学ぶって言ったって、そんなに俺達会わないじゃないか」
「ああ、先週の金曜日以来だっけ」


 先週の金曜日。
 さらりと件の出来事があった日を上げられて、心臓に痺れが走る。
 あの日定例連絡会で顔を合わせて、アメリカの屋台がどうこうと二人で話したのだ。
 言葉自体はまるで天気のことを話すような気軽さだったが、この人はきっと事細かにアルフレッドとの会話を覚えているのだろう。
 そして、別れて家に帰った後。

 ああ駄目だ、どきどきする。

 顔は赤くなってはいないだろうか。
 日本に来てから気づいたが、白人はちょっとした紅潮でもすぐに悟られてしまうのだ。
 反対にちょっとしたことでも赤くなるのだから、幾らでもごまかしようはあるのだけれど。


「……違ったか?」
「え、ああ、違わないと思うよ」


 怪訝そうに眉を顰められて、内臓が悲鳴を上げた。
 しっかりと話に集中しないと、すぐにでも気取られてしまうかもしれない。
 これから大体一時間。
 授業時間よりは短いが、テストを受けるよりもずっと集中していなければならないと腹を括った。





マジで酷いアルフレッド君がテレホンセックスをけしかけ

 指先一つの操作で、彼女の携帯電話が再び呼び出しを始めた。
 如実に肩を跳ねさせて、アーサーが目を何度も瞬かせる。
 混乱の極みにいるらしい彼女は必死に深呼吸をすることで何とか平静を取り戻そうして、息を吐き出すついでに声の調子を確認した。


「もしもし、ジョーンズか?」
「やあ、先輩。もうエッチなことはしないのかい?」


 いつもよりもずっと作った声にアルフレッドもいつもとは違う声音で返事をする。
 その瞬間、彼女の呼気が引き攣った。少し上気した頬を置き去りにして、瞳だけが恐怖に冷え切っていく。
 そんな顔も嗜虐心を立ち上がらせるエッセンスだ。


「オナニーしてたんじゃないの? この前はもっと気持ち良さそうだったよね。今日も同じバイブ使ってるのかな」
「……おい、何言って」


 かさかさに乾いてしゃがれた声すら興奮を煽る。
 今、彼女の胸中には何が渦巻いているのだろう。
 可愛い。かわいいかわいい。
 可哀想だけれど、その震える肩も含めて可愛い。


「アーサー」


 熱っぽく囁けば、取り繕おうとしている彼女が身を縮こまらせた。
 恐怖の中に、僅かながら熱が灯ったのが分かる。
 その事実に目眩のような感動を覚えた。


「君に気持ちよくなってほしいな」


 あ、あ、と段々艶っぽくなってきた声をアーサーが漏らして、何とか言葉を繋げようとしている。


「だめ?」


 言葉の構築と共に理性が復活するのを妨げようと、アーサーに追い討ちをかけた。
 彼女の手がぎゅっと携帯電話を握り締めて、目一杯顎を引いて僅かに首を振る。
 髪が入らないために反射的に閉ざされていたらしい瞼が再び上げられたとき、その虹彩は滲みながらも重だるい熱を孕んでいた。
 は、と吐き出される吐息もどこか安堵の色を帯びている。


「どうしたらいい……?」


 探るつもりも時間を稼ぐつもりもなく、縋るような声だった。
 その響きに全身の汗腺が広がったような気持ちになって、引き戸の前に扇風機の一つ設置してこなかった自分を恨む。
 初めて日本式のお風呂に入って、すぐに逆上せてしまったときのような感覚。
 もっと頭の先まで沸騰させてほしい。
 こんな気持ち、自分は知らない。


「分からない?」


 いつもやってるんじゃないの、と付け加えてやれば、くしゃりと彼女の顔が歪む。
 心細くて泣き出す手前の子供に似た表情からは、悔しさの類は窺えなかった。
 もしかしたら、この人には被支配欲があるのかもしれない。
 いつもしゃんとした人が誰かに全てを預けて従ってしまいたい願望を抱えているなんて反則以外の何物でもない。


「も、分かんないんだ……全然、ぐちゃぐちゃで、分かんない」


 ふるふると振られる頭を押さえたせいで、彼女の体の中枢を押さえていたバスタオルがずり落ちていく。
 一瞬外気に肌が触れる冷たさに理性が働こうとしたが、窓を一瞥しただけでそれ以上の動きはなかった。
 窓が開いていないか確認しただけだったのか、それともそこから見られている可能性があると思ったのか。
 一体彼女は見られていてほしいのだろうか。
 五感は健在なはずなのに、どこかから監視されているなんて空恐ろしい話だろう。
 幼い頃眠りに就く間際に感じた宇宙の外側にいる観察者になったようだ。
 自分が大いなる何かに管理されているような感覚を彼女は今味わっているのかもしれない。
 そこにある恐怖と己が何かに縛られているという安堵。


「そういうときはどう言えばいいと思う?」





お電話中


「……は、あ……聞こえた?」
「うん、ちゅくちゅく言ってて凄くどきどきした。柔らかくなったら前使ってた玩具入れようか」


 前回味わった享楽を思い出したのか、ぶわわと彼女の口元が戦慄いたのが分かった。
 性具を掴んだ手を制すると、ひ、と泣きそうな音が喉を擦る。そんなにも今すぐ欲しいの?


「お尻上げて入れた方が気持ちいいだろう?」


 あ、と背筋を走るぞくぞくが押し上げたような声が上がった。
 電話口で指示されるに止まらず、普通なら恥辱でしかないだろう姿勢を要求されている。
 それなのに彼女は瞳の焦点をぼやかして、自分を支配される快楽に震えているのだ。


「分からないかい?」


 これほど興奮するシチュエーションがどれだけあるというのか。


「ううん、分かる……! 分かる、から」


 まるで見捨てないでというようにアーサーが慌ててベッドで体位を変えた。
 丁寧にぴんと臀部を上げて、首に枕を当てて体を安定させる。
 その姿勢のままバイブにローションを絡ませて、両手で位置を定めてつるんとした部分を膣口に擦り付けた。
 自らを焦らすように何度かそこに滑らせてから、ぐっと手に力を込める。


「ふ……っぁあああ! く、んぅ……っ!」
「……入れてるだけでも気持ちいい? どんなふうになってる?」
「んぁっ…きもちいい……ヴァギナがきゅうきゅうなって、どんどん、んんっ…奥に来て、クリトリスもぎゅって……っあ!」


 優しい声で聞いてやると、アーサーが猫のように背中を逸らせながら告白した。
 すぐにでも更なる刺激が欲しいのか、アーサーの手がコードに繋がるスイッチを探す。


「駄目だよ。まだ電源入れないで。他も触っちゃだめ」
「な、なんで」
「だって、入れてるだけで気持ちいいんだろ? だったらそのままでいいじゃないか」


 彼女にとっては残酷であろう言葉にひくんと体を震わせて、同時にひん、と甘ったるい悲鳴が上がる。
 高く上げられた臀部が震えるのは膣が快楽を貪ろうとしている証だろうか。
 シーツが強く握り締められて、アーサーが心地よい肌触りのそれに額を擦り付けた。
 ふ、と泣き出しそうな吐息が耳をこそばして、アルフレッドの首筋をちくちく刺激する。
 彼女が大きく口を開くが、吐息は嬌声に変わってしまって意志が伝えられない。
 どうしたの、と殊更優しく問いかけてやれば、酷く安心したように瞳が蕩けた。


「あ、あるぅ……やだ、たすけて」


 その助けてってどういう意味? そう声に出さずに問いかける間に、あっさりクローゼットから這い出していた。
 前回と同じ冷たい空気の感触が頬を撫でたが、今は冬場にスーパーに入ったときみたいに空気の層ができているのを感じる。
 冷たい空気が、暖かなそれに変わる感覚。
 もう駄目。
 元々我慢強い質ではなかったけれど、これは駄目だ。
 ふぁ、と上ずる嬌声を聞きながら、テレビの前の机に放り出していた部屋の鍵と鞄の小物入れに入っているヘアピンを引っ張り出す。


「ねえアーサー、もっと名前呼んで?」