多忙の恋 6



 う、と喉から声が漏れた。
 誰に聞かせるわけでもないから、わざわざ言葉を付け加える必要はなかった。
 流れ落ちる赤い体液をシャワーで排水溝に追いやって、なるべく深く息を吸う。
 息を吐き出しながらじくじくと痛む下腹部に手をやった。

 いや、諸悪の根源はもっと下にあるのだけれど。
 先程までは大丈夫とばかり思っていたのに、落ち着いてしまったらこの体たらくだ。
 思い出したかのように痛み出したそこを忌忌しく思いながら、それでも僅かな間苦痛を忘れてくれた体に感謝する。
 先輩に苦しんでいるところをあまり見られたくなかったから。

 再び滑り落ちてきた血には少々危惧を覚えると同時に、自分が今までとは違うものになったという意識に震える。
 つい最近やっと自分の中にある女性性を受け入れられるようになったというのに、早々に俗にいう女になってしまった。
 怖くはない。
 怖くはないけれど、どうしてかくらくらする。
 感性の変化に理性がついていっていないからなのだろうか。
 ただ、以前は忌むべきだった浮ついた感情が、酷く愛おしく感じられるのだけは確かだ。


「直斗、大丈夫か?」


 廊下と脱衣所との間の仕切りが開いて、先輩の声が聞こえてきた。
 シャワーを止めれば途端に漂う冷気にほんの少し肌が粟立つ。


「あの、すみませんが、鞄持ってきてもらえませんか?」


 確か鞄の中には予備の生理用品が入っているはずだった。
 体がそれなりに緊張しているからか外で始まることなんて一度もなかったけれど、一応入れておいたのがこんな所で役に立つとは思いもしなかった。


「ん、分かった」


 几帳面に仕切りが閉められて、口元に笑みが浮かんだ。
 仕切りを開けるのは声が通りやすいようにするためだけれど、決して磨りガラスの戸の前まで来ないのはこちらを気恥ずかしくさせないため。
 仕切りを閉めたのは、彼が持つ元来の性質がそうさせたのだろう。開けたら閉める。
 そんな考えが生活に染み付いているらしく、先輩の部屋は男の人にしては綺麗なのではなかろうかと思うほどだった。

 ここ数日ではあるが、影を潜めていた先輩の優しさがそこここに垣間見える。
 強引な方法だったと思う。
 先輩があそこで突っぱねれば、きっと次の日から真面に顔も合わせられなかっただろう。

 自分を飛んでるお嬢さんと評した花村先輩は恐らく、先輩の優しさを自分以上に冷静に見ていたのだろう。
 いや、自分と先輩を客観視できる立場にいたからこそ、岡目八目という奴で簡単に分かる話だったのかもしれないが。
 けれど、とにもかくにも花村先輩に参謀と称するだけの観察眼と見識があるのは確かなのだ。

 今になると、始めの弄りすら自分が早く皆と溶け込めるようにとの配慮だったのではないかとさえ思える。
 相手の優れた部分を素直に受け入れ、かといって卑屈にならずに己の力を発揮できる人。
 言葉にすれば簡単だが、そうそうそんなことができる人などいないのだ。

 では、自分はどうなのか。
 ただ、独占欲で先輩を縛り付けることしかできなかった。
 花村先輩と自分の役割は全くもって異質なもので、本来の役割そのものも重々承知している。
 己の役目の大凡は純粋に事件の究明を目指すことであり、現在では生田目と対峙した際にどう対応していくかを考えることだと思っている。
 事件の証言を聞き出す以外に禄に人と触れ合って来なかった自分には、花村先輩の心配りに全然敵わない。
 当然の話なのに、どうしてこんなに悔しいのだろう。


「直斗、置いとくからな」


「あ、ありがとうございます」


 仕切り戸の音と、鞄を丁寧に置く音がする。
 控えめな音に顰めていたらしい眉間を和らげ、最後に軽くシャワーを浴びようと蛇口を捻った。

 それでも。それでも先輩は私を選んでくれた。
 それだけはきっと誇るべきことに違いない。




 借りたドライヤーで頭を乾かしてから、机の上に取り残されたコーヒーカップに目をやった。
 二つ折のドライヤーを畳んで、コードを胴体に軽く巻き付けて机に置く。
 その手で冷えたコーヒーカップを拾って、机を離れる。
 油汚れかで少しぺたついた電子レンジに二つ並べて、暖めスイッチを押した。
 くるくる回る箱の中を見ていると、不思議と少しずつ思考の糸が解れていく。
 ああ、足元が冷たいと思ったら靴下を履いていなかった。


「――ひゃっ!」


 突然背後から抱きとめられて、情けない悲鳴が口を突いた。
 静かに忍びよってきていたらしい先輩がふふ、と息を漏らす。
 襟首に降りてきた濡れた頭がこそば痒いのだけれど、顔が火照ってうまく口が開かなかった。
 さっきまでもっと凄いことをしていたはずなのに、だからといってすぐに慣れるものでもないらしい。

 それなりの大きさの電子音が目の前で鳴り響いて、一瞬何の音か分からずに体が強ばった。
 電子レンジだ、と気づいた瞬間に先程とは少々種類の違う笑いが零される。
 抗議を兼ねて先輩を見上げた先には緩んだといって良いほどの先輩の笑顔と、頭を撫ぜてくれる掌。
 それだけでさっき現れた少々刺々しい思いなんてものは一瞬にして溶けて消えてしまう。

 離れた手を視線で追いかけると、先輩は電子レンジの戸を開けた。
 丁度手前にきていたブラックコーヒーを手に取って、小さく音を立てて啜る。
 先輩に習って自分のコップに手を伸ばして、コーヒーカップに口を付けた。


「先輩、髪を乾かさないと風邪引いちゃいますよ」


 暖かいを通り越してまだ熱いコーヒーカップに時折触れながら、どんどん冷たくなっているだろう先輩の髪の毛を思う。
 髪の毛だけならば良いのだが、もちろんその先端には頭があるわけで。


「うん」


 先輩は返事をしておきながら、コップを電子レンジの上に置いて、両手でもって再び体を抱き締めてきた。
 明らかに言動が一致していない先輩の行動に、顔どころか首まで熱くなった気がする。


「うんって先輩!」


「もうちょっとだけ、このままでいさせてくれないか?」


 襟首に戻された先輩の頭と肌をこそばす息が酷く鮮明に感じられる。
 どうにか短く答えて了解して、回される腕にそろそろと手を重ねた。


「今日はありがとう、頭冷えた」


 ずっと冷静でいられていたと思っていた、とか、リーダーだとか言って一人で抱え込んでいたんだな、とか、とにかく先輩は少し言いにくそうに自己反省をした。
 彼の言葉には少なからず以前の自分を言い表している部分があって、不謹慎ではあるけれどどうしても嬉しさが押さえられない。


「直斗、どうした?」


 表情に出てしまったのか、電子レンジの僅かな反射を見取って、先輩が不思議そうに覗き込んでくる。


「皆、同じなんですね。……不安で、歯痒くて、でも平気に見せたくて。僕も、ずっとそうでした。いえ、もしかしたらこれからもなのかもしれません」


 自分が思っているよりも、自分達はずっと不完全な生き物なのだ。
 きっと今まで知らなかった一面や目を背けてきた部分と、これからは向き合っていかなければならない。


「先輩、こんな僕とこれからも一緒にいてくれますか?」


 見詰められる瞳から逃げながらも、目を逸らしてほしくないと思う。
 わがままな白鐘直斗の女の子の部分。

 そう、これも自分なのだ。
 たとえどんな状況でもこちらを見ていてほしいと思う浅ましい独占欲も、それを厭う気持ちも。


「当然。直斗が嫌って言っても放すつもりなんかないからな」


 急に抱き締める腕に力が籠もって、途端に息苦しくなった。
 男の人の筋力を否応無く感じてしまい、形容しがたい熱に胸が焼ける。


「ちょっ、苦し……」


「放さないって言っただろ?」


 くすくすと笑う先輩を見ると、ふっと口角が上がるのを感じた。
 先輩の体温に意識を寄せながら、ゆっくりと瞼を落とす。

 人というのはきっと、皆が似たような悩みを抱えて生きていくのだ。
 多少の差があるからこそ真に共感できることは少ないのだろうが、ある程度分かり合うことはできるはずなのだ。

 自分達にはまだ、沢山見せなければならない内面というものがあるのだろう。
 いつかまた来るであろうそのときを思うと、少しの不安を塗りつぶしそうな期待が胸に湧き起こった。


「頑張りましょうね、色々と」


 それは菜々子ちゃんのことだったり、はたまた明日見られるだろう花村先輩のニヤニヤ顔だったりするのだが。


「そうだな。頼りにしてる」


 はい、頼りにしてください、と答えれば、やはり先輩は柔らかく笑った。

 浅ましい感情もあまり見せたくない欲望もあなたと一緒に抱えていけるのなら、いつか愛おしいものに思えるかもしれない。
 あなたを純粋に思う、きらきらした穏やかな感情のようにあなたを愛する気持ちだと、受け入れて愛せるようになるかもしれない。
 今はまだ、扱い辛い厄介な感情に外ならないのだけれど。

 どうか側にいてください、と今度は胸の内だけで願いを掛けるように唱えた。