多忙の恋 2



 一度角度を変えられたと思ったら、濡れた気配が唇をこそばした。
 鼻から深く息を吸ってから口を開けると、柔らかな感覚が滑り込んでくる。


「ん……」


 舌なのだとは思うのだけれど、自分の物とは全く違う感触に閉じていた瞼を上げた。
 目を開けたのだから当然目の前の光景が映って、慌てて瞼を再び閉じた。
 くすり、と先輩が笑うのが聞こえて、しっかりと今の状態を見られているのだと思うと肌がちりちりする。


「ふ、ぅ…ん」


 その間にも口づけはどんどん深くなって、存分に口内を探られた後に舌を搦め捕られる。
 ただ粘液同士を重ね合わせているだけなのに、どうしてか背筋がぞくぞくした。
 鼻から息を吸おうとしても上手く吸い込むことができなくていい加減苦しくなってきたが、止められるのが少しだけ惜しく思える。


 シャツを強く握ったのに先輩が気づいたようで、そっと顔を離された。
 先輩と自分の間を一瞬だけ繋いだ唾液が名残惜しそうに見えたのは、実際自分が名残惜しいからなのだろう。恥ずかしい話だけれど。


「直斗」


 優しいけれど芯のある声。
 常とは違う瞳に射竦められて、余計にシャツを握る力が強まった。


「はい」


「続き、してもいい?」


 はい、と先程と同じ答えを返したつもりが、自分で聞いても物凄く上ずってしまっていた。


「別に、嫌なら今日はこれでお開きでもいいんだぞ?」


 言葉の字面自体は親切心その物なのだが、先輩が明らかに笑っているので台なしとしかいいようがない。
 折角の緊張やら勇気やらをぶち壊された気分だ。


「からかわないでください! いいって言ってるんですから、いいんです!」


 思わず声を荒らげてしまって、さっきまでは表情だけで笑っていた先輩が軽く吹き出した。
 ふふふ、と笑いながら先輩が背を丸くして、体を密着させて抱き込んでくる。
 少し弾んだ吐息が後頭部を撫ぜた。


「直斗、直斗――可愛い、凄く可愛い」


 大好きだ、と耳元で熱っぽく囁かれて肩が震えた。
 背中に回っていた腕が片方外れて、ゆっくりと先輩が体を持ち上げる。


「僕もです、先輩」


 しがみついて告げると、浮遊感が体を襲った。
 どうやら幼児を抱くようにして抱え上げられているようで、軽く目眩を覚える。


「ひゃっ!」


 重力で自然下に擦れた体を支えるために、尻の辺りに手を回されて情けない悲鳴を上げてしまった。
 これからもっと先輩に触れられるだろうに、先が思いやられる。


「お、降ろしてください先輩、自分で歩けますから!」


「嫌だ」


 この程度で根を上げられては困る、と先輩が笑う。
 一度体を揺って具合を落ち着けてから、先輩は軽快に歩きだした。
 階段すら物ともしないのは、日々の鍛練のなせる業なのだろう。
 けれどさすがに片腕で人を支えるのは心許ないらしく、先輩は自室の前でぴたりと止まった。


 視線を合わせ辛くて俯いたままドアノブを回して戸を空けると、ありがとうの言葉と共に額にキスを落とされる。
 軽く足で扉を閉めた後、絡まっていた手やお座なりだった足を解かれてソファに降ろされた。
 きちんと畳まれていた布団を先輩が敷き直す横に近づくと、まだだというふうに手で制される。


「恥ずかしいだろうけど、始めに服脱ごう。制服だから皺になったら困るだろ」


「う……そう、ですよね」


 真に建設的な意見ではあるのだが、先輩の言の通り恥ずかしくて仕方がない。
 俯いて制服のカラーを掴んでいると、先輩がストーブをつけたらしく灯油の匂いが鼻を突いた。
 大き目の音は火力を強にしているからなのだろう。早く脱げということか。


「あ、先輩、下のストーブまだついたままです」


 下の部屋で同じ匂いを嗅いだのを思い出して、顔を上げる。
 先輩がいない場所で脱ぐならまだましかもしれない。


「ゆっくり行ってこようか?」


「……お願いします」


 自分の思考回路くらい筒抜けらしく、先輩が意地の悪い笑みを浮かべた。
 悔しいけれど否定などしたら酷い目にあいそうなので、渋々願い出た。


 先輩が戸の向こうに消えた後、一気に学ランのボタンを外して脱いでしまう。
 ゆっくりとは言いつつも、もたもたしていると途中で入ってきてしまうかもしれない。
 明白な理由は見つけられなかったが、服を脱いでいるところを見られたり、脱がされたりするのはやはりとてつもなく恥ずかしいことに思えた。
 カッターシャツを脱いでから、矯正下着も脱いでしまう。
 始めは着るのも脱ぐのも一苦労だったが、今ではそう苦にもならない。


 上半身を脱いでしまうとさすがに寒くて、腕に鳥肌が立った。
 ズボンを脱ごうと下を向くと、さっきまで矯正下着に押さえ付けられていた胸が視界に映る。
 最近は先輩のこともあってそこまで嫌悪感を抱くこともなくなったけれど、こんなにいらないというのが正直なところだ。
 さっさとズボンも脱いでしまって、掛け布団を肩からかけて寒さをごまかす。
 一気に靴下も脱いでしまうと、規則正しいノックの音が響いた。


「入るぞ」


 返事を聞かずに先輩が部屋に入ってきて、布団に包まった自分を見る。
 それから畳まれていない制服に目をやって、もう一度こっちを見た。


「寒い?」


「さすがにちょっと」


 口にすると余計に寒くなりそうでぼやかしたにも関わらず、体が震えたのが分かる。


「ま、ちょっと我慢な。制服片すぞ」


 了解の意味で二回頷くと、先輩も頷いて制服を勉強机の椅子の背にかけた。
 簡単にシャツを畳んで、途端に手が止まる。
 けれど止まったのは一瞬だけで、先輩はすぐに矯正下着を手に取った。


「いや、あの、それあんまり伸ばさないでください……」


 伸縮性が興味の対象になったのか、先輩が下着を伸ばしているのを止める。
 弛むと本来の役割を果たさなくなるので非常に困る。


「悪い。ババシャツかと思ったけど、違うみたいだな。何だこれ」


 酷い言われようだが、これから説明する内容を思えば似たようなものかもしれない。


「えと、ナベシャツって言うんですけど、矯正下着ですね。胸を押さえるのに使っているんです」


「ああ、おナベが着るシャツ、か。着てて辛かったりしない?」


 ナベシャツの語源を考えていたらしく、少し間が空いてから先輩が質問を重ねる。
 本来ならデリケートなはずの問題に全く頓着しない態度が不思議と好ましく思えた。


「始めは少し違和感がありましたけど、今では全然。あって当然と思ってますから、ないと不安なくらいです」


 なんとなく普段の調子を取り戻してきたような気がして、内心ほっと息を吐く。
 嫌ではないけれど、やはり緊張してしまうのだ。
 先輩がへえ、と関心があるのかないのか良く分からない相槌を打ちながら、脱いであった服を全部畳んでしまった。


 強に設定していたストーブのお陰でどうにか暖まってきた室内で、先輩が上着を脱いでハンガーに掛ける。
 帰り際にストーブを少し弄ってから落ち着いた歩調で布団の脇までやってきてしゃがみこむと、先輩は胸の前で手を合わせた。


「先に謝っとく。ごめん」


「え、――っ! せ、せんぱっ」


 いきなり謝罪されて、こちらが理解しきらない内に被っていた布団を剥ぎ取られた。
 前を綴じている指に力を入れる前にあっさりとはだけさせられた胸元を先輩がじっと見る。
 説明を求めるつもりで呼びかけたのだけれど、全くもって反応がなかった。
 突き刺さるような視線を感じて、先程の頬の熱なんて可愛らしいものだと思ってしまうくらいに顔が熱くなるのを感じる。


「あの、先輩、こういうのって順番みたいなのがあると思うんですが……」


 もう一度呼びかけると、やっと先輩の視線が動いた。


「……あー、いや、悪い。気になって」


 少しばつが悪そうに先輩が再度謝る。
 けれど順序を守る気はないのか、先輩の手がそっと胸を包んだ。
 触られる感触というよりも、初めて自分以外の誰かが胸に触れるという行為にどうしようもないくらいに衝撃を受けた。
 元から早く打っていた心音が、それ以上に跳ね上がって響くのが分かる。


 どうしよう、ただ触れられただけでこんなにもくらくらするなんて。


「大きい」


「お気に召しませんか」


 呟く声も表情も不満を表していないのは容易に見て取れたが、それでも軽口を叩いてみる。
 ずっといらないと思っていた物が、先輩に喜んでもらえるなら何て嬉しいのだろう。
 言葉にして教えてほしい、と思ってしまう。


「まさか。胸が嫌いな男はいないし、俺は貧乳より大きい方が好きだ」


「……赤裸々すぎませんか」


「いや、まだまだ。実際、直斗のはもっと小さいんじゃないかと思ってたからな。感動も一入だ」


 でもまあ、直斗だったら何でも良かった、だとか、ナベシャツって凄いな、だとか先輩は感想を述べ続ける。
 予想以上の言葉の攻撃に堪えられなくなって耳を塞ぐと、先輩が触れていた胸から手を離した。


「どうした?」


「本当に、赤裸々すぎますよ」


 耳を圧えていた手に先輩の手が重なって、そっと圧えが外される。
 先輩の掌は驚くほどに熱かった。


「嫌だったらちゃんと言って抵抗しろよ? そうじゃなきゃ、多分止められない」


 分かるだろう、と絡まされる指はやはり熱い。
 ちゃんと自分が欲しがられているのだと思うと、体の芯に寒気が走った。
 こわい。でもそれよりも嬉しくて堪らない。


「宜しく、お願いします」


「……こちらこそ」


 普段とは違う素に近いトーンで願い出ると、先輩はいつもより少し低い声音で鼻先で囁いた。
 鼻先を啄まれたかと思えば、唇が重ねられる。
 ゆっくり体が傾かせられるのを感じて、ほんの少し体が強ばった。