この部屋の防音は学生アパートにしてはそれ程悪くないレベルだ。
少なくとも、深夜に隣の部屋から某動画サイトの時報が聞こえてきて目を覚ますことなんてない。
聞こえる音といったら、上階で人がたたらを踏んだ音とか、隣の部屋の大笑いや喧しい音楽くらいだ。
一般的に喧しいというレベルの物音を集合住宅で立てるリスクを知らない人はいないだろうから、そう頻繁に耳にすることはほとんどない。
コンパがあった夜に騒がしいのは、学生アパートではノーカウントで考えなければやっていられないが実情ではあるが。
しかし、壁に寄りかかるほど近寄ると大分話は変わってくる。
テレビの音や誰かと話しているらしい声を筆頭に、その他諸々が聞こえるのだ。
何となく人恋しい夜などは壁にもたれて、誰の気配を察しながら眠りに就くのも悪くない。
左隣の部屋は結構活動的な人物らしく、夜中になってもなかなか帰ってこないどころか一日部屋を開けるのだって珍しくない。
単位が怪しいと嘆いていたことがあったが、自業自得の典型なので同情するのは難しかった。
対して右隣は隣人に一晩中いなかったという認識を持たせない程度にはしっかり帰宅しているらしい。
家主が女性だから当然といえば当然かもしれないが。
ちなみに彼女は学部こそ違えど同じサークルの先輩である。
一応は語学サークルの体を取りながら、実質は文化交流に重点を置きすぎているきらいがある。
まあ、一つの言語に精通したいのなら該当の専修や研究会に所属する方が適切だろう。
多国籍の留学生が所属していると聞いて興味が湧いて見学をしにいったから、グラマーを覚えるよりもトルコアイスがヤギの乳からできているとかいった知識を溜め込める現状に大変満足している。
対して、イギリス出身で見事なクイーンイングリッシュを操る彼女は各国で使われる英語に関心があるらしく、あちこちの留学生からあれこれ聞いている姿が見受けられる。
細を穿った聞き取りになることも少なくはないが、他人の文化を知ったり自分の文化を発信したくて顔を出している輩が多いので、嫌な顔をする人間は見たことがなかった。
結構自分の国の英語が好きな人だからちょっと軋轢を産みかけるときもあるけれど、大喧嘩をしたのはフランスの留学生とだけらしい。
実際何度か二人して語気を荒げているところに出くわしたが、あれは純粋に不仲なのが原因だったのだろう。
本当に嫌いなら顔を合わせても相手をしなければいいのだから、どちらかというと喧嘩友達というのが相応しいのかもしれない。
ワシントンDC出身のアメリカ人に会うのは初めてらしく、あれやこれや聞かれたような気がする。
スラングまで尋ねられたときにはどうしようかと思ったが、交流を続ける内に結構下品なことだって平気な人なのだと知った。
むしろお酒が入ると大変なことになるくらいだ。
だからといって、普段からモラルを蔑ろにするような人ではなく、むしろ厳格なくらいな人。
単なるサークルの先輩の一人で先輩呼びを求めてくるように格式張っていて時々面倒臭いけれど、彼女のぴんとした背筋と喋るときに薄く開く唇は嫌いじゃない。
つい最近まで彼女、即ちアーサー・カークランドに対するイメージは概ねこんな具合だった。
けれど、それはたった一つの穴の存在によって崩されてしまった。
いつの間にこんな物が出来ていたのかは全くわからない。
けれど、都市伝説か何かのように隣の部屋が覗ける穴が押入れの壁に開いていたのだ。
始めは光を反射する箔がへばりついているのかと思ったが、触れてみるとへこんでいるのが分かった。
とはいえ、小さな穴だから何も見えないだろうと思っていたのに、光の差し込む先に彼女の部屋が見えたのだ。
そこにはベッドに寝転がってぼんやりと参考書に視線を落としている彼女がいて、その瞬間自我が消滅した。
後から思えば、あれがいつか菊が言っていた西田哲学とかいう奴だったのだろう。
物事に集中しているときは集中する自我はなくなり、自我だったものはその物事になる、だったか。
それはともかく、集中しているせいでやたら間の開いた瞬きをするため、明るい緑の瞳がまじまじと観察でききた。
彼女がこんなにも綺麗な瞳の色をした女の人だなんて思いもしなかった。
膝を曲げて足の裏を天井に向けている足は、大分余裕のあるルームウェアがずれ落ちて細い足首から脹脛のラインを露わにしている。
はらりとページが捲られて始めて、結構な時間が経っていたことに気がついた。
他人のプライベートなど覗いていいはずがない。
己の良心が声高に訴えて、あの日は何とか押入れを閉じられたのだ。
それから見ないようにと思えば思うほど、神経が研ぎ澄まされるのが憎らしかった。
それ程感じなかったはずの物音まで日常的に聞こえてきて、頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回していく。
それでも、まだ小さな挙動が聞こえてくるまでは良かったのだ。
小さな悲鳴を聞くあの日までは、あの行為が事故と言えたはずだった。
メールや電話を掛けてみたり、それこそ玄関から尋ねたりしなかったのは何となく予感があったからかもしれない。
物も詰められないでいた押入れから窺えば、ベッドに腰掛ける彼女の姿があった。
一糸まとわぬ姿で、恐らく布団や枕で作った傾斜に体をまかせ、ゆるりと足を開いている。
持っていたのは性具らしきものなのだけれど、極一般的にイメージされるようなバイブともローターとも異なった不思議な形をしていた。
トーチの台座の端から棒が出ていてその先に卵型のパーツが付いている。
バイブよりは短いように思えたが、多分しっかり準備をしないと痛いのではないかと思う大きさだ。
アーサーも先走ったと思ったのか、熱っぽい瞳で局部を見下ろしながら細い指を這わせた。
指を挿入している様子はないけれど代わりに塗り広げているように指が動いて、時折小さく肩が揺れる。
口呼吸が中心になっているらしく、薄く開いた唇がふわふわと動いた。
低いモーター音がして、台座部分を中心に性具が動き出す。
「っ、ん……」
恐らくクリトリスの辺りに台座が当てられて、きゅっと口元に力が入って籠もった声が上がる。
踵がシーツを抉るだけでは耐え切れずに顎が引かれるけれど、性具を押さえる手は弱まらなかった。
それどころかあまった左手がおざなりになっていた胸に触れる。
きゅうっと起ちあがった頂点を摘みながら、乱暴なくらいに性具を押し当てると僅かに腰が跳ねたようだった。
ふるふると頭が振られて、足りない酸素を補おうと口が大きく開かれる。
そこから熱っぽい吐息が漏れ出しているのは、たとえ聞こえてこなかったとしても明白なことだ。
目は眇められているけれど、それでも自らの痴態を映して淫猥な光を灯していた。
マスターベーションだ、と今にも沸騰しそうな頭で思う。
快楽の追求と発散は恐らくアルフレッドをはじめとする男共とそう変わらないはずだ。
しかし、自分がやってもこんなに艶っぽい雰囲気は絶対に出ない。
心理面の働きが違うのだろうか。
「っ――ひ、ぁ…あぁ」
ひくんと性具を操る手が引き攣ってから、震えが肩まで上がっていく。
一通り細くて甘い声をぽろぽろと零してから、ぼんやりと息を整えているようだった。
緩んだ瞳から熱が去っていないところを見る限り、おそらくまだ達してはいないのだろう。
人から見られていることも知らない無防備な姿から目が離せない。
本来なら見なかったことして、引き戸を閉めてしまうべきだと分かっているのに。
一方でまるでAVでも見ているみたいに、向こうにいる彼女に現実感が感じられないのも確かだった。
だって、こんな状況が現実だなんて俄かには考えられない話だ。
「ん…んん……」
呼気が落ち着いた後、意識的だったであろう深呼吸がされて、ぐっと卵型のそれを膣口に突き立てた。
口元に力を入れているせいで鼻からくぐもった声が漏れ出す。
上手く入らないのか性具を回して愛液を絡めながら、少しずつすべりを良くしているらしかった。
もどかしそうにものほしそうに表情が歪められて、こちらの腰までぞくりと震えてくる。
バイブが完全に潜り込んで、アーサーが安心したような息を出す。
それから、かちりとスイッチが入る音だけがやけに鮮明に響いた。
くぷ、と空気が漏れ出して、膝が擦り合わさる。
「ふああっ……あん! あー……」
途端にぴんと首筋まで逸らして、アーサーがあられもない声を上げる。
バイブから手を離して背後にあったシーツを引っ張り出して縋りつきながら、姿勢を正そうとするけれど上手く行かないようだった。
ぼろりと涙が溢れ出して大きく口を開けるけれど、深呼吸など許されない。
「やぁっ……奥きちゃ…ぁああっ……ひっ!」
初めて使った性具だったのか、予想外の動きに戸惑いの声が上がった。
棒から卵形のパーツが出ていたのを思うと、恐らく膣で締め上げると奥に潜り込んでしまう仕組みなのだろう。
怯えたようでいて、それでも甘ったるい声を上げるアーサーの姿を注視している内に口内に唾液が溜まっていことに気がついた。
異様に興奮すると唾を飲み込むのも忘れてしまうらしい。
生ぬるいそれを飲み込むと、漫画とでも思ってしまうような音が鳴った。
随分相性がいい性具を銜えこみながら腰をひくつかせている顔見知りの女性を見て興奮しない方がおかしい。
演技ではなかろうかと思うくらいに過剰な反応をしているのだけれど、そもそも演じる必要はないはずだ。
「あ、うぅ…む、んーっ、んんっ……!」
あまりにも声を上げているのに耐え切れなくなったのか、アーサーが寝返りを打ってうつ伏せになるとシーツを噛み締めた。
その瞬間、全身が跳ねて硬直する。
所謂ドギースタイルの姿勢で刺激される場所が変わったからか、より大きな性感を受けているらしい。
持ち手の方が下に撓んでいるから、胎内の裏側を刺激しながらクリトリスを押し上げられているのだろう。
少しの間ならシーツを銜えられていたようだったが、次第にその余裕も消え失せたのか口元が緩んだ。
「――は、あああぁっ……やっ…あるぅ……」
ベッドに額を擦りつけながら漏らされた声に心臓を射抜かれるような心地になった。口にされたのは、もしかしなくても自分の愛称なのだろうか。
だとしたら、この覗き行為そのものがばれているのか。
いや、そんなまさか。
自ら壁に穴を開けるか存在に気づいているかで、発見させた上で自慰行為を見せつけるなんてあまりにもナンセンスだ。
その上、このシチュエーションに至る可能性が低すぎて到底現実的だとは思えない。
その仮定が正しければ、今彼女は自分か、自分と同じ名前の人物を想像しながら自らを慰めているとしか考えられない。
「も、だめ、だめぇ……っ」
背中を猫のように逸らしながらも高く臀部を上げている様はまるでねだられているようで、普段の様子とのギャップに目眩がした。
深酒をしたときのアンチモラルな振る舞いとも違う、恥を含んだその表情に瞬き一つできない。
自身も興奮から、目やら唇やらが乾いているのが分かった。
血圧が上がっているのか、指先を握りこむと心臓がそこに転移したかの如く脈動している。
一瞬、たった一瞬だった。
アーサーがこちらを見た。
視線は合わなかったから、正確に表現するならアルフレット・F・ジョーンズの自室を見たというのが適切だろう。
それから、ふぁあ、と盛りのついた猫みたいな声を上げて、きゅうと瞳を閉じてしまった。
制御できない体がひくひくと跳ねる。
どうやら達してしまったらしい。
「ひっ……やだ、だめ、入ってきちゃっ……ぁ、ああああっ!」
達しながらきゅうきゅうと締め付ける内部は性具を更なる奥へ誘い込んで、膣とクリトリスを苛み続ける。
シーツを強く引き絞る指先がふるふると震えて、緩められた瞳からは過ぎた快楽に翻弄された証としてぼろぼろと涙が零れた。
よく見れば足の指すら丸まっている。
「あぅぅ…ひんっ……あ、ある、あるふ……あっ、あん……」
舌足らずに必死に呼びかけられると、肺が焼けるような感覚がした。
間違いない。名前を呼んで、この部屋を見て達して、それでもまだ呼びかける。
彼女は想像の中でアルフレッドと性交をしているのだ。
自分が彼女の背中に覆い被さって、達する彼女にも構わずに奥へ奥へと自身を進めている。
甘ったるい声を上げるこの人の中に自分がいて、彼女と獣のようなセックスをしているのだ。
どこかの血管が切れてもおかしくないほどに高まりを感じる。
「あ、あ……ああ、んっ……!」
最後は密やかに彼女は全身を震わせた。
長い時間をかけながらもやっとオルガニズムを極め切ることができたらしく、バイブから伸びた細いコードに手を伸ばす。
性具が停止すると彼女の緊張がやっと途切れて、火照った体をずるずるとシーツに落としていった。
性具を銜えたまま呼気を整えるシチュエーションが扇情的で仕方がない。
多分自分がそこにいたら、腰を引っ張って引き寄せて次のラウンドに突入しているだろう。
「あれ……あ、よし」
悲しいかなというべきか幸いというべきかは微妙なところだが、何事もなく落ち着いたアーサーが性具に手を伸ばす。
取っ手を掴んで引き抜こうとするものの形状のせいで抜けにくいらしく、独り言に焦りが浮かんだ。
しかし、何度かトライする内に上手く抜けて、同時に安堵の色が浮かぶ。
それからもう少しだけぼうっとしてから、少しだるそうに起き上がってベッドから消えてしまった。
小さな穴からは窺えないが、恐らくシャワーでも浴びに行ったのだろう。
押入れから這い出したアルフレッドの体も汗だくだった。
狭い空間はいつの間にか酸素量すら少なくなっていたようで、部屋の空気が新鮮に感じる。
そのままベッドに座り込むと、さっきから窮屈だった場所に目をやった。
まあ、あんなものを見て反応しないはずがない。
ジーンズを押し上げるそれを解放してやると、直に触れて目を閉じてありありと浮かぶ先程の情景に集中する。
きっと、どんなポルノ作品だって先程の経験に勝るものなどないだろう。
あの、すぐにでも抱きしめたくなるような甘やかな呼び声が脳裏に木霊する。
今はそればかりに囚われて、明日からどんな顔をして顔を合わせようか、とか彼女が自分を好きなんだろうかとか考え始めるのはもう少し後のことだった。