クラブエンパイアで逢いましょう



 母が死んだ。それも自殺だった。
 生活を苦にして心を病んで、どうやら使い込みをしてしまっていたらしい。
 彼女に対して怒りなどはなかった。
 ただ怒るとするならば、そんな素振りにも気づいてやれなかった自分にだけ。
 母は自分に掛けていた保険金の限度に近づいた頃合に死んでしまった。
 理解してのことだったのだろうと思えるくらいには彼女は優しかった。

天涯孤独の身の上になって、葬式をして借金を返したときに気がついたのは学費のことである。
 公立の高校を卒業する蓄えはあった。
 しかし、その先の進学のための資金がない。
 母がいる頃は資金を貯めてからの進学や奨学金を狙おうと考えていたが、一人で生活をしている状態では進学のための貯蓄などできるはずもない。
 けれど、そのまま進学ができるような金銭もまたないのだ。

こうして、アーサー・カークランドの学びの道は閉ざされた。
 そう確信した矢先の出来事だった。
 いつもと同じ物なのに味を感じない食事を機械的に詰め込んでいると、ある初老の男性が訪ねてきた。
 鋭い視線に何の準備もなくドアを開けてしまったことを後悔したが、次に続く名乗りにそんな考えは吹っ飛んでしまった。
 ここからの記憶は曖昧なのだが、つっけんどんな物言いで彼は進学費の負担の申し出をする。
 こちらが言葉を失っていると、彼は続けて条件を提示した。
 一つ、上流階級専用のサロンである『エンパイアクラブ』で働くこと。
 二つ、そこで次期経営者候補の経営意欲を創出できれば二十日間で勤めが終わる。
 三つ、候補が経営を辞退すれば、正規の賃金で労働してもらうことになる。

その場で返事を求められ、状況が理解できないままそれでも即座に頷いたのは、たった一つの欲求がこの身を一瞬で支配したからだった。


* * * *


「なんで来ちゃったの?」
「……お前には関係ない」

 ふい、と視線を逸らすと生まれてこの方着たこともなかったようなフリルのスカートが視界に入る。
 自分にはどうやったって似合わない少女趣味めいた服装が、目の前の男にはどう映っているのだろう。
 幸い、今のところ服装云々よりもアーサーがこの場にいること自体に意識がいってくれているようだから、滑稽さは与えていないらしい。

「関係なくないでしょ。お前の選択が俺の相手を決めたわけだし」

 困ったようなため息一つ。
 外部からの刺激をその響きだけにしたくなくて、無理やり口にジンジャーエールを詰め込んだ。
 緊張で味がしないかと思ったが、上流階級専門を銘打つに相応しい味わいが味覚を満たした。
 人間の体はいつだって正直だ。

「まあ、俺じゃあ不満って言うのも分かるけどな」

 決して褒められた造形をしていないのは分かっている。
 ぱさぱさした髪やどう整えていいかすら分からない立派な眉、貧相な体にやたら骨ばった指先。
 世の中で称される女性的な基準から大きく離れてしまっていて、いっそのこと男として生まれた方が良かったのではないかと悩んだことすらあるくらいだ。

「あのねえ」

 窘めるように、押さえつけるように、男が重苦しく口にする。

「唐突に祖父からオーナーを任せる試験を課せられました。そのお店がそっち系でした。その試験では女の子を立派なメイドさんにしないといけません。で、その対象が幼馴染ってどうなの」
「……幼馴染って言っても、何年会ってないと思ってるんだよ」

 そういう問題だと思ってる? と非難する視線が投げかけられたので、さもそういう問題だという風の顔をしてやった。
 もう一度、今度は重いため息がフランシスの口から漏れる。

「……本当にさあ、何で来ちゃったの? お兄さんに教えてよ、ちゃんと聞くから」
「お前に言ったところで分からない」
「なんで話す前に決め付けちゃうの」

 分かり合おうとしない姿勢がお気に召さなかったのか、如実に彼の声のトーンが下がった。
 成人した男性の苛立ちを直に感じ、意識的に唾液を喉の奥に送り込んで緊張を紛らわす。
 話したところで伝わらないと思っているのは事実だ。
 幼い頃の記憶や彼の祖父の身分を考えれば、彼が何不自由なく生きてきたのは疑いようがない。
 そんな彼に今の自分の欲求など伝わるはずがないだろうし、正直なところ理解してほしいとも思わなかった。

 理解してしまえば最後、彼は同情と哀れみの目で己を見ることだろう。
 分かっている。
 自分が同情すべき、哀れな身分であることなど遠の昔に理解している。
 それをわざわざ人から教えてもらう必要などどこにもない。
 ちゃちなプライドというものなのかもしれない。
 しかし、それ以上に他者から示されてしまっては、立っていられなくなってしまうのではないかと思えるのだ。

「これじゃあお兄さんが悪者みたい……って何その悪者以外の何者でもないって顔」
「いや、悪者以外の何者でもないだろ」

 己の所業ではないとはいえ、有無を言わせぬ条件を突きつけて女性の体を好きにしようとしているのだ。
 残念ながらどう考えてもいい方向に捉えることはできそうにもなかった。

「そういうこと言っちゃう!?」

 彼の叫びに頷いて応えてやれば、大仰な仕草で両手で顔を覆われてしまった。
 そのままいくら待てど顔を上げる様子はない。

「何かあったのか?」
「だって俺が乗らないなら油っぽいおっさんに仕込ませるって」

 途端に顔を上げたフランシスに口にした瞬間、文字通り全身に鳥肌が立った。
 実際に相手が彼だと知るまでにある程度の可能性は考慮していたし、受け入れねばならないと覚悟だってできていた。
 しかし、自分に触れるであろう人間が彼だと知ってしまっては話が別だ。
 幼い頃の遊び相手だった彼は似合わない髭を生やしてはいるものの、世間一般で高評価に値する容姿をしている。
 一度レベルが定まってしまえば、それ以下を許容するのは難しい。

「俺も初めは断ろうと思ったんだけど、懐かしの妹分の名前出されちゃうと、ね?」
「……とりあえず髭剃ってから言おうな?」

 自分の容姿を理解しているとしか思えない発言に、思わず気になっていた部分をこき下ろしてしまう。
 彼の風体が高評価なのは間違いないが、自認した振る舞いは鼻に付くのだ。
 知り合いの方がまだましだとでも思っているのかもしれないが、正直初対面の方が割り切りやすいようにも思える。

「いや、剃らないよ」
「なんで」

 髭の話題をしているからか、無意識を思わせる動きでフランシスが自らの髭に指を乗せる。
 違和感の元が隠れた顔を見て、やはり剃ってしまった方がいいのではないかという感想を抱いた。

「髭があった方が総合的にいいもん」
「全っ然分かんねえ……」

 おこちゃま、と笑われて苛立ちを込めた視線を返しても、笑みを深められるばかり。
 昔のように殴りかからなかったのは握り締めた指先に絡まったスカートの布地のせいだった。
 恐ろしい程に分かりやすい身分の象徴を今更ながらに突きつけられて、勢い言葉を失ってしまう。
 自分の立場とこれからのことが思い起こされて、引き絞った口角が戦慄くのが分かった。

「アーサー、本当に言いたくない?」

 優しい声音に乗せて、すとんと言葉が落ちてくる。
 一瞬、本当に一瞬だけ、全てを話してしまおうかと思った。
 同情されるべき立場を、自らを代償にしても学びの道に進みたいという欲求を全て吐露して可哀想にと口にしてもらいたいと思った。
 哀れんでもらって全てを任せてしまいたいと、そう。

「……言いたくない」

 それでも何とか拒否できたのは、二十日経てばどちらにせよ清算されてしまう関係だと分かっているからだ。
 今人に寄りかかってしまえば、簡単に心が離れていけるとは思わない。
 それがたとえ、いけ好かない方法で人の弱みを引き出そうとする似合わない髭を蓄えた男だとしても。

「……そう」

 てっきり非難が飛んでくるものとばかり思っていたので、彼の平静を保った声は驚きに値した。
 恐らく彼はアーサーを陥落させたとばかり思っていただろう。
 そう予想させるくらいには甘美な響きを持って自らを震わせたのだ。
 自覚しているだろう容姿の上等さ以上に、彼には人の心を揺り動かす技術があるらしい。
 間違いなく沸き上がったであろう失望などおくびにも出さず、フランシスは頷いて見せる。

「まあ、二十日あるしね。話したいようにしてあげるから」
「え」

 恐ろしいほど落ち着いた声音で紡がれた言葉に掠れた音しか出せなかった。
 こいつは一体全体何を言っているのだろう。
 二十日かけてするべきことは、一人の女に仕事用の性行為を行えるよう仕込むことである。
 決してアーサーがここにいる理由を知るために用意されたのではない。
 だというのに、何だこの決意したような清々しい瞳は。

「奥行こうか」
「いやあの、おい、ほ、ほら、目的が違うだろ?」

 じりじりとソファの奥に逃げ出そうとするが、記憶の中の名残など全く見られない手がアーサーの腕を捕らえた。
 情けない声を出している自覚はあるが、修正することもできずにフランシスを宥める。
 要らない話などせずに、さっさとベッドに向かってしまえば良かった。
 そうすれば、世間一般でいうところのモチベーションが高い学生の瞳を向けられることなどなかったのだ。
 どうしよう怖い。場違いすぎて怖い。

「やることは一緒だもん」
「だもん、じゃねえよ!」

 引き寄せられる男性特有の力強さに腰が砕けるのを感じながら、少しでも抵抗しようと顔というか髭に手を伸ばす。

「もー、荒っぽいメイドさんなんだから!」
「ひ、や、やだ! 離せくそ髭!」

 顎に指が届くまでに体が引き寄せられたと思ったら、十年近く感じていなかった浮遊感に襲われた。
 可愛らしさの欠片もない悲鳴が喉を震わせて、逃げた空気を補給した際の甘い香水の香りに目眩を覚えそうになった。
 無意識の内にばたつかせていた体が傾いで、さっきよりも大きな声を上げてフランシスにしがみつく。
 ただの抱っこから俗にいうお姫様抱っこの姿勢になりバランスが安定してから安堵の息を吐くと、くすくすと笑う声が頭上から落ちてきた。

 わざとだ、と気づいたときにはすでに彼は個室に向かって歩き出していた。
 ふわふわと揺れる感覚が腹の底にある不安を揺り起こして、フランシスの腕を掴んでいた指の力を更に強める。
 小さく笑う彼は、きっとこの指先の意味を抱き上げられている不安定さからきていると誤解などしてくれていないのだろう。
 いけ好かない。
 そういうところが気に入らないのだ。

 しかしそれ以上に、彼が呼び起こす苛立ちで、蟠った不安が一時でも掻き消えてしまったのが何よりも。